強制収容所トゥルクハイムにおけるユダヤ人犠牲者のための慰霊碑前でのヴィクトール・フランクルの式辞(1985年4月27日)

訳者のまえがき

今年は第二次世界大戦終結七十周年であり、日本のみならず第二次世界大戦関係国では様々な記念行事が行われている。それに伴いドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会に於いても2015年4月26日(日)、南西ドイツの町トゥルクハイムのユダヤ人犠牲者の慰霊碑前でトゥルクハイム役場とプロテスタント教会と合同での記念式典が執り行われた。ロゴセラピー&実存分析を発明したヴィクトール・フランクルが七十年前の四月二十七日、トゥルクハイムの強制収容所から解放されたからである。日本ロゴセラピー&実存分析研究所所長はかの地のロゴセラピスト達とともにこの式典に参加した。

フランクルはテレージエンシュタット、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、カウフェリング第三収容所という三つの強制収容所に収容されたあと、トゥルクハイムの強制収容所に移され、1945年4月27日に解放されるまでの半年間を強制労働に服していた。彼は1985年、トゥルクハイムでの解放四十周年記念日の際に式辞を述べている。以来、十年ごとに同じ町で記念式典は催され、フランクルの式辞精神は繰り返し学習され検討され受け継がれてきた。今年もまた慰霊式典に先立ち、ドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会の総会において同じことが行われた。筆者は以下に、フランクルの1985年の式辞テキスト全文を訳出し紹介する。読者の参考になればと思う。

撮影2015.4.26 T.YASUI

敬愛する祝祭客の皆さん、まずわたくしはあなた方に、あなた方がわたくしを招待する栄誉を示してくださったことに感謝します。それとともに、あなた方はわたくしに言葉を発する許可を与えてくださいました。そのようにしてわたくしは実際、死者たちの名において語ることを正当化されてもいます。わたくしの誕生場所はウィーンです。しかし、トゥルクハイムはわたくしの再生の場所です。わたくしの人生の前半が経過したあとの再生。しばらく前、わたくしは80歳になりました。そしてわたくしはわたくしの第40回目の誕生日を強制収容所トゥルクハイムで過ごしました。わたくしの誕生日の贈り物は、わたくしが何週間もの発疹チフスの後初めて高熱から自由になったことです。

そのようにして、実際、わたくしの最初の挨拶は死んだ仲間たちに届けられます。またわたくしの最初の感謝は、記念の石を造形したギムナジウムの生徒に向けられます。わたくしはそれが捧げられる死者たちの名前においてあなた方に感謝いたします。またわたくしは、わたくしたちを解放し、わたくしたち生き延びた者たちの命を救った方々にも感謝します。そしてあなた方にある小さな物語を伝えたいと思います。

わたくしが何年か前にテキサスの首都の大学で、わたくしによって創始された心理療法、いわゆるロゴセラピーについて講義をしなければならなかったとき、市長はわたくしに名誉市民の称号を与えてくださいました。わたくしは答えました、わたくしを彼の市の名誉市民にするかわりに、わたくしは彼を「名誉ロゴセラピスト」に命じなければならないだろうと。なぜなら、テキサスからの若者たちが彼らの命を賭してそして彼らの中の各人が、わたくしたちを解放するために命を犠牲にしなかったなら、1945年4月27日以後、いかなるヴィクトール・フランルも、ましてやロゴセラピーも存在しなかったからです。市長さんの目には涙が込み上げていました。

さて、しかし、わたくしはトゥルクハイムの市民の皆様にも感謝しなければなりません。わたくしがカリフォルニアにある合衆国国際大学で学期最後の講義をするときには学生の願いにもとづいて一連の写真を示すことを常としていました。戦後、わたくしがアウシュヴィッツ収容所で撮影したものです。わたくしはこの一連の写真を見せた後、彼らにべつにもう一枚の写真を見せました。それはわたくしが、鉄道の築堤の向こうの大きな農家のまえで撮影していたものです。わたくしはムッシュという大家族の全員を農家のまえに集まるようお願いしました。これは命の危険を冒してまでも収容所から逃げてきたハンガリーのユダヤ人の女の子を、このあいだの戦争の間自分の家に匿っていた人々でした。それによってわたくしはわたくしのもっとも深い確信であるところのもの ― そしてすでに終戦後の最初の日から最も深い確信であったものを証明することを試みたのです。すなわち、いかなる集合的罪責もないということです。ましてや ― そういうことを許されるなら ― いかなる懐古的な集団的罪責ももってのほかです。人は両親あるいは祖父母の世代がかつて行ったかもしれないことに対し誰かと共に責任を負うことはありません。

罪責はただ個人的な罪責であり得るのみです。誰かが他の人に対して自ら行ったあるいは中断したことに対する罪責あるいは誰かが行い損ねたことに対する罪責があり得るのみです。しかし、その場合でも、われわれは当該者の彼らの自由、彼らの生命、そしてもちろん彼らの家族の運命に対する不安に対してある理解を持ち合わせなければならない。確かに。それにもかかわらず強制収容所に入れられ、しかも彼らの確信に忠実であり続けることを選んだ人々はいた。しかし、本来、ひとは英雄主義をただ一人の人間からのみ要求することは許されるのであって、そしてそれはその人自身なのです。しかし、さしあたり自分自身の人格のために、彼が適合するあるいは妥協に応ずるよりもむしろ強制収容所に行く勇気を証明した者だけが、本当に他人から英雄主義を要求することを正当化されるのです。しかし、安全な外国にいた者は、他人から、日和見主義を行うよりもむしろ死に赴くことを要求することは許されない。そして、見よ!一般的に言って、収容所の中に入れられた人々は、例えば、自分の自由を救い得た移民あるいはそもそも何十年も後に生まれた人々よりも遥かにいっそう穏和に判断するのです。

最後に、わたくしはこの感謝の言葉をもはや体験できないある男性に感謝することを避けることはできない。トゥルクハイム収容所の指揮官、ホフマン氏のことである。わたくしは、わたくしたちが第三カウフェリング強制収容所からぼろぼろの衣服を着て、震えながら、毛布もないままで到着した時と同じように、まだ私の目のまえにホフマン氏を見る。そして人がわれわれをこの状態で彼のところへ送ったことについてホフマン氏は驚愕し、いかに自発的に腹の底から怒りを絞り始めたかを見る。後になってわかったことだが、密かにユダヤ人捕虜のために自分の金で薬を買ったのもホフマン氏でした。

何年か前、私は一度、収容所の捕虜たちを助けたトゥルクハイムの市民をこの地のあるホテルに招待しました。ホフマン氏も招きたいと思っていましたが、しかし、彼がそのしばらく前に亡くなっていたことが判明したのです。ある聖職者から ― あなた方は皆、この方を御存知ですが(彼もまたこの間に亡くなっていました) ― わたくしは彼からホフマン氏は彼の生涯の最期にいたるまで自己叱責に苦しんでいたこと聞きましたが、彼にはその必要がまったくなかったことをわたくしは知っています。わたくしは彼の気持ちを、いかに喜んで、いかに確信を持って軽くしてあげられただろうかと思います。

さて、あなた方は異議を唱えるでしょう、「確かに、あなたの言うすべてのことはまったく素晴らしい。しかし、ホフマン氏のような人間においては例外が問題なのだ」と。確かに、そうかもしれない。しかし、まさにこの例外こそが重要なのです。すくなくとも、理解、赦し、和解が重要であるところでは。そして、私は自分がこのように語るよう正当化されているように感じています。なぜなら、まさに他ならぬ有名な亡くなったラビ、レオ・ベックはすで1945年に ― 考えてもごらんなさい、1945年! ― 「和解を求める祈り」を起草しているのです。そこで彼ははっきりと言っています、「ただ善いことのみが数え挙げられるべきだ!」と。そしてあなたがたが「しかし、善いことは非常に少なかった」といって留保するなら、その時、わたくしはただもう一人の偉大なユダヤ人思想家すなわち哲学者ベネディクトゥス・デ・スピノザの言葉を持って答えることができるのみです。彼の主要著作『倫理学』は次の言葉で終わります。"Omnia praeclara tam ardua quam rara sunt!"(すべて卓越するものはまれにしか見出されずかつ行うことは難しい)実に、わたくしもまた、まともな人間は少数派であり、いつも少数派であったし、これからも少数派であり続けるのみであることを信じます。しかし、これは実際、なにも新しいことではありません。ユダヤに有名な伝説があります。それによると世界の存続はつねに三十六人 ― 三十六人以上ではない ― の正しい人たちがこの世界の中にいることに掛かっていると。さて、わたくしはあなた方に、正確にどのくらい多くの正しい人たちがいるかを言うことはできません。しかし、わたしは、あなた方のトゥルクハイム中央広場にも、数人の正しい人たちがいたし、そしてまだ数人の正しい人たちがいることを確信しています。そして、われわれがここで収容所トゥルクハイムの死者たちを慰霊するなら、わたくしはこれらの死者たちの名においてもトゥルクハイム中央広場の正しい人々に感謝したいと思います。(おわり)

1985年4月27日トゥルクハイム強制収容所跡地にて。解放されて40周年目の慰霊祭式辞を語るV.E.フランクル(80歳)

  • このページの先頭へ