コヴィー博士と稲盛和夫とロゴセラピー

クルツ先生、稲盛和夫の存在を学び知る

弊研究所では、一方でロゴセラピーの原則と、他方経済と労働世界における人間の行動との間の正しい関係を模索している。読者は弊研究所長(以下、私)が提供するプログラムの相当な部分がこの模索に捧げられていることを確認されるだろう。このエッセイでは、幾つかの実例を挙げながら、弊研究所の模索を支える出会いの一部を紹介したいと思う。

先だって引っ越したばかりで、部屋を片づけていたら『フォーカス』誌のドイツ語版、2009年53号、110頁〜111頁のコピーがポロッと出てきた。それは数年まえにヴォルフラム・クルツ先生から受け取って以来ずっと気になってはいたものの、それについて何らかのコメントを書くことのなかったテキストである。それはフォーカス記者の稲盛和夫との対談に関するもので、「私は言う、エゴを小さくしなくちゃならないと!」と題されており、「日本の経営者、稲盛和夫は、経営者たちの過剰ボーナスとエゴ中心性を批判する」とあった。稲盛氏は、多くの日本の経営者たちが、部下と従業員を「人間としてではなくただ費用のかかる部署としてだけ扱うこと」を批判した。彼は続けた、「それだけに今日、私が取り次ぎたいと思う価値はいっそう重要である。それらの価値を広めることを止めないだろう」。クルツ先生はこの文中の「価値」に赤鉛筆でしるしをつけて、稲盛氏へ同意している。

クルツ先生の注目する第二番目の言葉は、「一国の運命を手中に握る人々は結局ただ単に才能があるばかりではなく、性格も清廉潔白な人間であるべきである」のなかの「性格も清廉潔白な人間」の箇所である。

さらに、稲盛氏は彼が二年間寺に入って修行したことに触れて言う、「私は私の人生のある点において、私が立ち止まって考えたいところへ至った」と。この文章の中の「私が立ち止まって考えたい」という箇所はクルツ先生の目に留まった。
要約すると、クルツ先生は「価値」、「清廉潔白な人間」そして「立ち止まって考える」という三点を含蓄深いと感じたのだった。

  • このページの先頭へ

先生とコヴィー博士の『7つの習慣』

クルツ先生はドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会の第二代会長を務めた方である。彼はこの協会がロゴセラピーにおける各領域に公平な総合的協会であるべきとし、先生自身のロゴセラピー研究所も総合的研究所となっている。彼はそれにもかかわらず経済と労働世界の状況に敏感に反応する人でもある。先生はロゴセラピー教育カリキュラムの中にスティーブン・コヴィーの『七つの習慣』も取り入れている。

コヴィー博士は人間の自己形成には二重の側面があるとする。私的側面と公的側面である。彼は公平にこの二重性を取り扱っている。これは心理療法にとっても重要な観点である。
私的成功に関連して、1.主体性を発揮すること、すなわち自己責任の原則、2.目的を持って始める、すなわち自己リーダーシップの原則、3.重要事項を優先する、すなわち自己管理の原則が論じられる。

公的成功に関して顧慮されるのは、4.ウィン・ウィンを考える、すなわち人間関係におけるリーダーシップの原則、5.理解してから理解される、すなわち、感情移入のコミュニケーションの原則、6.相乗効果を発揮する、すなわち創造的な協力の原則である。 最後に7として、刃を研ぐ、すなわちバランスの取れた自己再新再生の原則となっている。自己再新再生とは私的と公的成功が理想的に総合された状態である。

クルツ先生はすべてこれらのことを手際よく、受講生の記憶に残るよう取り次ぐことができた。生徒が学んだことを実践できることが彼には重要だった。ドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会に所属する研究所は、必ずしもすべてが栄えているわけではない。クルツ先生はそのような研究所を「労働世界と経済」部門を活性化することによって再生することを試みているが、これは注目に値する。

  • このページの先頭へ

コヴィー博士と稲盛和夫の対話

クルツ先生がロゴセラピスト養成教育の中でスティーブン・コヴィー氏に言及することは、当然かもしれない。なぜなら、コヴィー博士自身、ヴィクトール・フランクルの影響のもとで『七つの習慣』を書き、このことを同書のいくつかの箇所において明言しているからである。私が驚くのは、コヴィー博士をよく理解するクルツ先生が、上に述べたように稲盛和夫氏の二ページほどのインタビュー記事の中にこの実業家のロゴセラピーへの近さを予感したことである。この予感の正しかったことは、その後しばらくして確認されることとなったのである。私は2011年8月、東京発行の『プレジデント』誌15号を手に取った時、私の予感の確かであったことを確認し、静かな喜びに満たされた。そこにはコヴィー博士と稲盛和夫の対話が九ページにわたって特集されているではないか。コヴィー氏は東日本大震災後、彼の日本の読者を力づけるために例日したのだが、その機会にプレジデント社が彼の稲盛和夫氏との対話を企画したのだった。特集には、「世界2000万部『7つの習慣』創始者と『経営12カ条』を唱える最後のカリスマ経営者」とある。同じページの真ん中に極大の字で「見えた!『富、幸せ、希望を手にする』6の鍵」と書かれている。六つの鍵というのはコヴィー博士の第一の習慣から第六の習慣を指す。ここで七番目の習慣「刃を研ぐ」あるいは自己再新再生の原則が省かれているのは、この習慣は第一から第六の習慣が完成された時の成果を意味するので、それを他の六つの習慣と並べて挙げる必要はないというにすぎない。

太くかつ大きく書かれている字の数行のほかに、それよりも小さな字で書かれた四行のうちの最初の二行は次のようになっている。

「JALを一気にV字回復させた稲盛和夫。
その秘訣は、経営ノウハウの実践とは一番かけ離れたところにあった。」

この二行は、JALを救った稲盛氏の基本信条に関わるが、それは「経営ノウハウの実践とは一番かけ離れたところにあった」とは、別な言い方をすれば、「『人間として正しいことをする』というフィロソフィー」のことである。このフィロソフィーは「経営」の目的のために作り上げられた「ノウハウの実践」というものではなくて、この実践の出てくる根元のことに関わる人生そのもののフィロソフィーのことである。「経営ノウハウの実践」だけではJALをV字回復させることはできなかった。稲盛氏の言うフィロソフィーは、例えば彼の精神の生成過程に決定的な役割を果たしたといわれる西郷隆盛の遺訓がそれにあたると言えるかもしれないが、ただ単にそのようなものとしてあるだけではない。そのような歴史的関係の根元の中にあり、人間の言葉の中に尽くされ得ない至高な者(あるいはモノ)の摂理のことだろう。それが人間存在の根元にあるから、例えば稲盛和夫氏の「経営12カ条」というものが出てくると考えられる。この12カ条は多分、稲盛に親しむ人々はすでに知っているに違いないが、それをまだ知らない方々もおられるかもしれないので、全条を引用しておく。

第一条 事業の目的、意義を明確にする
第二条 具体的な目標を立てる
第三条 強烈な願望を心に抱く
第四条 だれにも負けない努力をする
第五条 売り上げを最大限に、経費を最小限に
第六条 値決めは経営
第七条 経営は強い意志で決まる
第八条 燃える闘魂
第九条 勇気を持って事に当たる
第十条 常に創造的な仕事を行う
第十一条 思いやりの心で誠実に
第十二条 常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて素直な心で

コヴィー博士との対話の記事においては、それぞれの条文に手短な説明文が付せられている。煩を避けるためにそれを省いたが、各自、これらの条文を解釈し、味わうのもよい。

  • このページの先頭へ

コヴィー博士、稲盛和夫氏と対立する

さて、言及された四行のうちの第三行目には、次のように書かれている。
「一方、コヴィー博士は、家族、組織に通じる普遍性を説く」

これはどういう意味か。コヴィー博士は七つの習慣は、家族にも、組織にも当てはまる原理原則だと言う。この「原理原則があれば迷わない」とする。私はすでに指摘しておいたが、コヴィー氏の言う最初の三つの習慣は私的成功に関わる。それは自己の確立にかかわる習慣であり、それに邁進する。つまり、「主体性が発揮でき、自分がどうありたいのか、その為に何を優先して為すべきか、それがわかり、実行できるような人間になる」。このような人間となり、きちんとした人格を得なければ、家族そしてまた組織の成員として生きることは難しくなる。そしてこのことを訓練するのが、第四から第六までの三つの習慣、すなわち公的成功に関わる「利他の心」と呼ばれる習慣なのである。この意味で、六つの習慣以外に原理原則を届けるものはない。六つの習慣全体の徹底によって、人格の完成度を上げてゆく。それが牙を研ぐということである。肉体を鍛える、バランスよく栄養を取る。知性を磨く、つまり本を読む。精神を鍛える。自分の気持ちを豊かにし、価値観を明確にする。情緒を理解し、人間関係を整える。子供と向き合い、夫婦の時間をとる。部下の話を聞く。すべてこのようなことが滞りなく行われる。コヴィー博士は社会の根本には家族だとし、家族の価値にウエイトを置く。「どんなに外で、ビジネスで成功していても、家庭の中で不幸であればまったく意味がありません。ですので、私は『仕事の成功』の前に、『家族の成功』がなければいけないと言っています。私自身も家族を非常に大事にしています。」仕事の前に家族!この考え方においてコヴィー博士と稲盛和夫は真っ向から対立する。

  • このページの先頭へ

コヴィー博士、家族の意義を弁護する

先に、私は『プレジデント』誌の編集者がコヴィー氏と稲盛氏の対話の様子について四行のコメントを書いていると言ったが、編集者は最後の行を次のように書く。
「両雄の熱論は、時に融合し、時に対立し、深遠なる人生の真理に迫った」と。

両雄の共通点は多くあることには疑いがない。これは彼らが互いに認める通りである。両雄に関して、両者の「融合」も確かに夢ではない。「7つの習慣」と「経営十二か条」は立体的に一つにまとまる。まとまらない部分、差異は互いの個性として理解することも可能である。個性の対立も興味深いし、細かく観察すると対立する部分は相互に固有な長所となるかもしれない。

プレジデント社の編集者は、両雄はまさにこの家族と仕事、仕事と家族の関係に関する意見において真っ向から「対立」すると理解した。彼はこの議論のために正当にも多くのスペースを与え、両者の立場をそれぞれ次のように特徴づけている。

コヴィー:「仕事のために家族を犠牲にするな」
稲盛:「仕事のために家族を犠牲にした」

この「対立」を手短に述べると、稲盛和夫は自分にとって「従業員は家族」であるとする。彼は自分の妻や子供たちのことを素通りして考え、彼らが元来の家族ではないかのような扱いをする言葉が際立つ。自分自身の元来の家族は、自分(稲盛)の仕事のために犠牲になるのは当たり前だと言う議論を展開する。「まあ、(子供たちは)まがって育ったわけではありませんが、今思い起こしてみても、子供たちには犠牲を強いていましたね。」
稲盛氏はこのように言う。

コヴィー博士はこれに対して、さしあたり答える、「従業員のことを考えていると言うことは、従業員の家族のことを考えていると言うことですね。立派だと思います」と。
けれども、彼は自分の家族は自分の事業の犠牲になる用意がなければならないという要求については、断固反対!との立場を貫く。もちろん、彼自身、これからも仕事をどんどんと続けて、自分にとって素晴らしい人生を生きたいとして、「まださきに何かあるんだ、もっと先にもっといいことがあるんだという強い気持ちを持つこと。そして、引退するのではなく、貢献し続けること。それが鍵になります」と言う。コヴィー博士は、彼自身にとっても、仕事は天職であって、守り、継続するべきものである。しかし彼はこれに続けてきっぱりと言う、「その貢献の対象は、第一には家族、その次に社会ということです。この考え方は重要だと思います」と。

これに対して、稲盛、
「なるほど。心して、また頑張りたいと思います」。
これで両雄の対話は終わった。ワーク・ライフ・バランスの問題が解明されないまま、ある意味で対話はあっけなく終わったという感じが残る。仕事が家族を含めてすべてを吸収してしまう。仕事から偶像を作り、家族はそれへの供えものになってしまう。あたかも家族は家族にとっても大事ではないかのように。家族そろって社会の繁栄の犠牲になり、家族自身の価値から疎外されてしかるべきであるかのように。そのために何を頑張るの?本当に必要な議論はこれからというところである。もちろん、稲盛和夫氏は、ひょっとして、このインタビューの中には出ていない家族のための愛情深い行いを積んでおられ、コヴィー博士と同じように家族思いである可能性は十分あるかもしれない。これについてはどこまでも未決であるとしなければならない。仙台の私の住むビルの周辺の会社の窓からは夜中の12時まで煌々と蛍光灯の光が漏れ出ている。社員が外国との取引のため夜遅くまで仕事をしなければならないのかもしれないと思ったりしている。外国と日本の間の時差があると、それを埋めるために夜遅くまで働くのかな。働く父親と子供たちの関係、父親と母親のかかわりはどうなるのかな。日本の経済が家族の犠牲の上に成り立ち、経営の神様たちがその危うさに気づかないとしたら大変だと思う。家族の価値はどこにあるのか、何を捨ててよく、何を守るべきか考えなければならないのかもしれない。

  • このページの先頭へ

刺激と反応の間には意味の空間がある!

私はこれまで、コヴィー博士に注目するクルツ先生が同時に、稲盛和夫のロゴセラピーへの近さを確認したこと、コヴィー博士と稲盛和夫の初めての対談が出来事になったこと、そしてそれが両者の共通性と差異を興味深く示すことに注意を促した。以下、私はコヴィー博士自身が特にどの観点から彼のフランクルへの関係を描写するかに注目したい。
コヴィー博士は彼が実業のための指導を始める前、大学教授をしていた。ある時、彼がハワイ大学で講義をした際、そこの図書館で次の文章を含む本を見つけたと言う。

刺激と反応との間には空間がある。
この空間の中に我々の自由が存在する。なぜなら、
それは我々に反応へと決定することを可能にするからである。
  我々の反応によって我々はいっそう成熟でき、そして
我々の幸福へ影響を与えることができる。

コヴィー博士はその後、これら数行を事あるごとに反芻した。彼はフランクルに接続しながら、刺激と反応の間には選択する自由、意味探究の自由があるとした。それを使って「成長」し、自分の「幸福へ影響を与える」。

コヴィーはすでに『7つの習慣』(1989年)の第一の習慣の中で、この考えを使った。選択の自由の中にこそ、「人間の人間たる四つの独特な性質<自覚、想像力・良心・自由意思>があるとした。フランクルにとっても、コヴィーにとってもこの自由は同時に人間の責任を意味する。フランクルはこの責任について書く、「自由は全体の一部でしかなく、真実の半分でしかない。… だからこそわたしは、東海岸の自由の女神像に対して、西海岸に責任の女神像を建てるべきだと主張している」と。コヴィー博士は東日本大震災の四か月後、稲盛和夫との対話に前後して東京で行われたセミナーの中でこの主張に基づいた共通のプロジェクトに言及した。コヴィーにとっても、フランクルにとってもこのプロジェクトの実現は重要な関心事だったことを窺わせた。

コヴィー博士は2004年、『第8の習慣』を書いた。それは彼のリーダーシップ論だが、その結びにおいてフランクルに触れる。コヴィーは、フランクルの考えとの関連において、以下の文を書いている。

「本書で説いてきた原則が明確に伝わり、あなたの目に自分自身の価値と潜在的可能性が見えるようになっただけでなく、『自分のボイスを発見し』、多くの人々や組織、コミュニティがそれぞれのボイスを発見するように奮起させ、あなたが偉大な人生を歩むことを。
たとえ悲惨な状況の中で生きているとしても、その状況あってこそ、自分の反応を選ぶことを求める内面の呼び声にあなたは出会うのだ。その時、まわりにいる人々のニーズに気づいてそれに奉仕するようにと、『人生が私たちに呼びかける』。そしてこのときにこそ、私たちは人生の中で真の『ボイス』を発見するのである」

コヴィー博士は、各人は「内面の呼び声」を持つと言う。それ故、人はまずそれを聞く。そのうえで、「多くの人々や組織、コミュニティがそれぞれのボイス」を聞くよう導く。同時に、この二重のことを行う。自分で自分の「ボイス」を聞くのみならず、「多くの人々や組織、コミュニティがそれぞれのボイス」を聞くようリードする。
他人と組織がそれぞれのボイスを聞けるよう、他人と組織に奉仕する。コヴィー博士は、このようにして他人と組織に奉仕するというリ―ダーシップ、すなわち僕(しもべ)としてのリーダーシップを提供した。彼によると、「リーダーとは単なる役職ではなく、選択肢の一つである。謙虚で勇敢で、そして『偉大な』人々」のことである。

コヴィー博士は同じ頃、アレックス・パットコスという著者の『我々の考えの囚われ人』という本の序文を書いている。パットコスはこの本の中でコヴィーの『7つの習慣』に倣って、「ヴィクトール・フランクルの7つの、人生と労働に意味を与える原則」を論じた。コヴィーはこの本に寄せていわゆる「コペルニクス的転回」に言及した。私が何を人生から期待するかではなく、人生が何を私から期待するかを問わなくてはならない。私が何を状況から要求するかではなく、状況が何を私から要求するかを問わなくてはならない。このように、問いの立て方を転換させることが重要だとコヴィーはフランクルに倣って言うのだが、「この転換を意識し、正直に問いそして良心を調べる人間は」コヴィーによると「ほとんどつねに超越的な目標と価値を名指す。彼らは彼ら自身の人生を超えて指し示し、何事かを仲間の人間の為に到達しようとする意味へ身を向ける。ちょうどヴィクトール・フランクルがナチスドイツの死の収容所において行ったように。そのような人間は循環を破り、新しい循環を樹立し、肯定的な刺激を置く。彼らは、「移行」人格である。私はそう名づけたいのだが、調べることなしに踏襲された態度模範を破る人間のことである。」

このような人間は、コヴィー博士によると、私たちの思いと行いを規定するのは、普通単純にそう仮定するように、「私たち」ではなく、ほかならぬ「私たちを超えるもの」に他ならないことを知っている。「『移行』人格」は、私たちの思いと行いに付きまとうそれ自身の否定、それ自身の限界を知っている。それ自身の否定、それ自身の限界、すなわちその都度探求されるべき「意味」の存在と働きを知る人間のみがかろうじて、しかし確実に何事かを「変える」ことができる。コヴィー博士はこのことを言い表わすために、スコットランドの精神科医、R.D.ライン(1927〜1989)の以下の数行を引用した。

私たちが見、そして行うことのできるものは、
私たちの掴めないものによって
規定される。
私たちを超えるものが、私たちを超えるのだから、
私たちはなにかを変えるためになにもできない。
私たちを超えるものが私たちの思いと行いを
規定することに気づくまでは。

私たちが生きること、働くことは、私たちを超えるものすなわち「私たちが掴めないもの」、同じことだが「意味」と関わる。一見、生きることにも、働くことにも関係ないと思われるこの認識が実は、生きることと働くことを規定してくる。私はしばらく前、マンフレット・ヘフレ氏の「意味と責任 ― その企業教導のための意義」という論文を私のホームページにおいて紹介した。ヘフレ氏の論文もこの度のコヴィー博士の「序文」と軌を一にしている。「人間は意味に満ちた人生のために努力しなければならない」。意味ある人生から人間を逸らす「危機」は至る所に隠れている。ヘフレ氏によると、ロゴセラピーはそれに応答できるとし企業リーダーの採用すべき路線を示した。この論文も参照されたい。

ドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会のオストベルク氏の2014年2月末のニュースレターによると、スイスの未来学研究グループ、swissfutureの研究調査は、企業人の「意味のある課題」への希望は増大している。
同じ調査は、リーダー、企業および経済の指導者は困難な状況における希望の担い手とはみなされていないことも分かっている。
希望の担い手としての指導者の役割を継続的に改善することは望ましい。

同じニュースレターのもう一つの調査結果によると、「人生の意味への問いの上昇指数は、希望、弾力性そして楽観主義の指数に相関する。下降指数はいっそう大きな厭世主義のそれに相関する」

意味への問いを問い続けると、決して厭世主義には陥らない。厭世主義に陥ることをよしとしなければ、意味を問い続けるべきだ。これは人生の理屈である。調査はこのように、アメリカにおいてもヨーロッパにおいてもヴィクトール・フランクルの意味への問いが生かされつつあることを示している。

仙台 2014年6月2日

追記
「時代精神」と仕事の世界/人間像/反意味と意味の促進/動機づけ/価値共同体としての企業/決定と行動/自由と責任/チームの仕事/コミュニケーションと協力/危機と葛藤/フロー体験/モッビング/燃え尽き/ストレス/リードするための道具立て/コーチングのプロセスを作る/変化を惹き起こすなどの領域で、あなたの仕事をコーチします。お問い合わせください。

  • お問い合わせフォームはこちら
  • このページの先頭へ