ロゴセラピーによる心理療法家ボグラルカ・ハディンガー博士、ザルツブルク新聞記者ヨーゼフ・ブルックモウザー氏によるインタビュー記事(2015年3月27日)

訳者のまえがき

ハディンガー博士は1955年ブダペスト生まれ、オーストリア国籍。『自殺とメディア』(ディプロム論文)、『心と免疫システム』(博士論文)、ロゴセラピー&実存分析研究所・チュービンゲン・ウィーン所長。人間にやさしい建築と都市形成のためのイニシャティブ設立者、人格形成の領域における著書多数。国内外における講演活動をしている。ウィーン市ヴィクトール・フランクル賞の受賞者。

ハディンガー博士はフランクル先生御夫妻と公私にわたり交わりのあった人であり、2015年3月27日、フランクルの110回目の誕生日のためにヴィクトール・フランクル研究所主催の祝賀講演を行い、その後、ダッハウにおいて「世界は健全ではない、しかし健全にできる」という講演をしている。その約一月後、2015年4月24〜26日の三日間、「自由 ― 何のため?」という主題の下に南西ドイツのバード・ヴェリスホーフェンにて開催されたドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会総会2015においてもフランクルの生涯と彼の心理療法の特質について講演された。両講演とも、同じ演題で行われたので、ダッハウ講演もほぼ同内容だったと思われる。

以下、ハディンガー博士が、フランクル先生の誕生日の講演の前後にザルツブルク新聞の記者と行ったインタビューを訳出した。そこではヨーロッパにおけるユダヤ教、イスラム教そしてキリスト教それぞれを代表する人々の出会いの生み出す葛藤とその解決への道が示唆される。記事の終わりの部分でフランクルのトゥルクハイム講話の内容が引用され、ロゴセラピストの世界の中での働きの方向とその効果が示唆されていて、日本におけるロゴセラピーの使い方、ロゴセラピストのあり得る働き方を窺い知ることができると思われる。

以下、2015年3月27日ドイツ国内ザルツブルク新聞 に掲載されたインタビュー記事の全文

以下、インタビュー記事全文和訳

毎日新たにあなたは、あなたがどのような人間なるかを決めるのだ

110年前の今日ヴィクトール・フランクルは生まれた。緊急な問題になっているのは、毎日の課題の中に取り分け意味を見つけそしてテロリストや殺人者たちを政治的に抑えるという彼の要求である。

記者ヨーゼフ・ブルックモウザー

心理療法家ボグラルカ・ハディンガーはウィーン市の市役所においてヴィクトール・フランクルへ寄せる祝祭講演を行う。彼女はザルツブルク新聞のインタビューの中で「世界は健全ではない、しかし健全にすることはできる」と語っている。

SN(ザルツブルク新聞):ヴィクトール・フランクルは危機一髪で強制収容所における死を免れた。どのように彼はすでに1946年、後に『…にもかかわらず、人生に然りを言う』というタイトルのもとで知られた本を書くことができたのだろう?

ハディンガー:思うに、それは一方において、ある内的な立場の取り方による。彼は彼がどのような人間になるかについて他人に決めさせようとはしなかった。彼は強制収容所にいた時、「私は君たちが私に行うことに対して、私がどう対応するかを自分で決める」と小さな紙切れに書いた。この態度は彼の全生涯にわたって貫かれた。「君は、どんな人間になるかを毎日新たに決めるのだ。これは同時に自由と責任である」。第二に、どの人間も人生において課題を持ち、それは人に力を与える。強制収容所における恐ろしい出来事はこれをいっそう濃密にした。

SN:課題に向き合うことは、彼のロゴセラピーの原理となった。
フランクルはすでに若い医者として、彼が自殺危険のある人間に随伴した時、 生きる意志は、誰かが課題を持つ時戻ることを認識した。そのために生きようとする誰か、そのために生きようとする何ものかを欠く時、生きる意志もまた欠ける。

ある輝かしい英雄的人生を理想として提供することは、まったく危険である。

そこでわれわれは今日への橋をかけることができる: われわれはいかなる報酬のある仕事も持たない人間あるいは亡命を申請する人間に基本的な生活扶助を保障する。これは正しい。しかし、われわれは同時に、ここわれわれの国においてある課題を見つける、何事かへ投入する可能性を妨げる。多くはそのことによって無活動、攻撃、犯罪あるいはうつによって崩壊する。人間は自分には与えるものがないと考えるとき、内的な荒廃は始まる。
単純に、与えることと受けることの原理を生きることは非常に簡単だろう。世話することを示すこと、世話する者は同様にサポートを必要とすること、職業を持つ母親に夕食を作ること、時間的な理由から誰も訪れる者のいない祖母を養老院に訪ねること、子供たちに遠い国の文化から来た歌を教えること、遊園地を確保すること等々。

SN:私たちの責任を要求する小さな事柄における意味がいつも問題なのですね。 わたしは「小さい」とは言わないでしょう。なぜなら、男性はそれを好まないからです。具体的なものが問題であると言いましょう。緊急な例を挙げます。女優のヒルデ・ダーリクはアフガニスタンの避難民の子供たちと青年たちと働いています。彼らは劇場で「ロミオとジュリエット」を演じそしてその際、自分自身の物語を演じます。彼らは仕事を持っています。彼らはメッセージを持っています。彼らの村々で彼らはどのように家族が互いに戦うか、どのように父親たちが彼らの子供たちを支配するか、どのように町のギャングたちが生まれるかを体験しました。一人の青年は語っています、「私は、人々に、人間が別の場所でどう生きているかを見るために演ずる。そして私は、いつかは辞典を書こうと思う。私の村の子供たちが読み書きを学ぶことができるために」。ごらんなさい、具体的なものはしばしば決してそんなに小さいことではありません。
もう一つの例: ウィーンには「貸ばあさん」という言葉があります。朝早く、仕事を持つ母親たちが非常にあわただしい時、「貸ばあさん」は家族を訪ね、子供たちに彼ら自身の速さで服を着させ、彼らと一緒に朝ご飯を食べ、子供たちを落ち着いて幼稚園へ連れて行きます。これはすべての人々にとって買うことのできない素晴らしい贈り物です。

SN: それにもかかわらずわれわれは、例えば、若い人間がオーストリアからISISへ引っ越すとき、概して、ある無意味と狂気のまえに立つ。
われわれの教育システムに適合しない人間は全体の15パーセントいたし、いまもいる。将来もそれだけ多くの人間はいるだろう。彼らはたいてい若く、男性的であり、実力者の持ち分があり、そして偉大な英雄魂を持つ。彼らはパーセントの計算、化学の薬品表、動詞の変化には本当に弱かった。公務員あるいは医長になることはとうてい彼らにはできない。英雄魂を持っていったいどこへ行こうというのか?どのような意味ある課題が勇猛な戦士にあるというのか?彼ら英雄の居場所は、われわれの学校システムの中のそしてわれわれのコンクリートで閉ざされた都市のどこにあるのか?
われわれはこのような若者たちのためにどんな意味のある場所も持たない。われわれは彼らを学校の中に詰め込み、まったく彼らに相応しくない認知的手続きを押しつける。同時に、彼ら本来の才能と憧れは破れたまま横たわる。そのようなときに、速やかな上昇のチャンスと権力と女性を伴う輝かしい英雄人生の夢の提供がやってくる。これはまだ一定の成熟水準を持たないこれらの青年たちにとって死ぬほど危険である。どのような狂気がそこから生まれるかを、われわれは毎日メディアで目にするのである。

SN:これは中東において働く破壊的諸力のことなのか?その場合、課題は、ことが始まる前に防ぎなさいということか?
一つの国民の発達においては、個々人の発達は繰り返される、と多くの歴史家は考える。アラブ世界の諸民族は、何百年にもわたって小さいものとされ続けた。基本的に小さい子供の年齢のままにされた。彼らはいまいっそう大人になる。彼らは、思春期にさしかかった子供がそれを望むように、自分で彼らの道を行き、彼らの人生を決めようとする。 これは大人になる道筋においては普通の発達段階である。破壊的であるのは、思春期になりつつある者が手榴弾、カラシュニコフそして他者に対する暴力を手中にするときである。彼らは責任的にこれらの武器とかかわる成熟水準を持たない。そのような人間はわれわれの中にもいる。しかし、彼らは幸いなことに、これらの武器を持たない。その上、人はアラブ世界においても積極的な同一性を強める将来像、実現可能な目標そして ― われわれはふたたび意味というテーマのところにいる ― 生きるに価する目標が必要である。われわれもまたもちろん時々これを必要とするだろう。

SN:現在、ただカリフだけが魅力ある将来像であるように思われる。
ここでは、多分、一方では悩ます憧れを、他方では苦痛に満ちた成長を指し示す症候が問題となっている。その場合、しかし、二つの課題が存在する。第一に、予防する課題、第二により良くないことを妨げる課題である。
フランクルは1988年三月、彼の有名な市役所広場における講話の中で、二つの人間のグループがあると語った。それは人間的で、助ける用意のある人間のグループと非人間的で、暴力をふるう用意のある人間のグループである。この分割は諸民族と諸国家を横断的に、そしてすべての宗教を横断的にそしてすべての政党を横断的に貫く。われわれはこのことと折り合いをつけなければならないとフランクルは言う。しかし、その時、あるグループの否定的な選別が表面に溢れるなら、危険は脅かすだろう。
それゆえ、われわれは今日、どの程度われわれの非介入がまさにこの小さなグループが権力を握りそしてますます広がることを可能にするかを緊急に問わなければならない。このグループの中には賢い男たちはいない。子供たち、成熟した者たち、母親たち、娘たちはいない。これはまず小さなグループである。しかし、すべての人間は悲しみを担う。
われわれは予防としてすべての者たちのために意味の場所と英雄の場所を作るべきだろう。内的に思春期に入っている者たちにいかなる武器も与えない。そして、とりわけいっそうよい成熟水準を配慮する。しかし、もしも予防が遅すぎるなら:フランクルは彼の強制収容所からの解放を彼の第二の誕生日として体験した。他の大陸の人間が介入しそして世界を国家社会主義の悪から解放する用意がなかったなら、その時、彼もそしていかなるロゴセラピーもなかったことだろう。
私はしばしば思う、どのくらい多くのフランクルのような人間が今日、世界の他の部分に住んでいるかを。彼のような女の子たちと男の子たちが。彼らのなかのどのくらい多くの子供たちが第二の誕生日を体験しないか、そして、それゆえ、どのくらい多くの良いことが生まれることができないかを。われわれが臆病からあるいは愚かさから介入しないがゆえに、そのようなことが起こらないかを。それゆえにわれわれは、国家社会主義者たちの上昇において事情がそうだったように、われわれは暴力を拡大させるかどうかという問の前に立っている。

おわり

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