仏教とキリスト教の対話
- 一つの冒険? -

1. 安泰寺

兵庫県、浜坂にある曹洞宗・安泰寺の住職は、ネルケ無法という名のドイツ人である。彼は一九六八年生まれ、二十二歳のときベルリン自由大学卒業後、日本へやって来た。一時、京都大学に籍を置き、修士号を取得したが、彼の目的は早く日本での禅修行を始めることだった。一九九三年、二十五歳で安泰寺において出家得度、こんにちまで徹底して修行に打ち込んだ。さまざまな経緯を経て二〇〇二年、安泰寺の住職になった。彼はこの間の経緯と、その後の今日に至る働きを『迷える者の禅修行』という新書本のなかで描写している。私はそれを一気に読了し、彼の一途の修行態度に感動した。なぜ感動したのか。私自身、青年時代に学業の傍ら、自分自身に馴染むなにか新しい生き方を求め、その結果として二十七歳の時、ドイツに渡ったからである。私は、その後、彼の地の大学院において神学という日本人では珍しい学問を修め、それを終了した後、二年間の職業訓練を受けてヘッセン・ナッサウ州プロテスタント教会の牧師となり、この職を十数年間務めた。私の経歴のかなりの部分は、ドイツから日本への道を歩んだネルケ無法さんのそれと、真逆方向ではあるが、相覆うことを改めて確認させる。私はその後帰国し、仙台市に隣接する名取市の大学で宗教学を教える傍らドイツ滞在中の仕事の意味を考え続けてきた。ドイツとの対話はこれからも続く。

私がネルケ無法さんと出会ったのは彼が出家得度間もない一九九四年の夏から秋にかけての頃だった。私は、当時、四十七歳だった。なぜ、この出会いが起こったかを明らかにするために、すこしだけ私自身のことをお話ししようと思う。私が働いていた教会では勤続十年のあと、希望によりサバティカル(休暇)をとることが許された。この制度を利用して、私は七月から九月にかけての三か月間、北京市で太極拳を学び、そのあと日本の安泰寺で坐禅をしたいと思った。いまにして、非常に贅沢な願いだったと思うが、私はこのプロジェクトを私の教会の事務局に伝え、了解をいただいた。長い間心の中で準備していた計画をいよいよ実現できることとなった。私は当時西ドイツの首都ボンの中国大使館を通して、かつてスポーツ専従の大使だった王氏に会うことができ、中国武術協会教練委員会、北京市呉派太極拳研究会副会長をしておられた李乗慈先生を紹介していただいた。一か月半ほど、この先生から全四十五部からなる太極拳を学んだあと、休暇の後半は日本に渡り、兵庫県久斗山の安泰寺で過ごした。なぜその寺を選んだかと言うと、私の義父が、安泰寺がまだ京都にあった時、当時の住職、内山興正老師のもとで参禅していた経緯があり、義父からそのことを聞かされていたからである。私の目論見は、安泰寺で休憩させてもらい、元気になって、その後の仕事に備えることだった。ところが、この願いは非常に甘かった。安泰寺で休養をとるどころか、慣れない坐禅と作務に専念させられた。坐禅は、足がしびれて、坐禅終了のゴングが鳴るまでの時は待ち遠しく、まだかまだかと待つばかりだった。これは時とともに幾分か緩和されたとはいえ、滞在期間の最後まで続いた。それでもがんばるだけはがんばった。作務はできるだけのことをしたけれども、これも休むことからは程遠かった。それでも慣れるにしたがって、素晴らしい自然環境と雲水さんたちの親切により、心身ともに回復できたことは実感である。

このような中で出家得度して間もない無法さんに出会ったのである。いまでも、切り倒したばかりの大木を力いっぱい動かそうと奮闘する無法さんの姿が思い浮かぶ。ここに、私と同じ道を逆の方向に歩む人がいる、私はそう思った。彼は流暢な日本語を話し、道元禅師のテキストを読み、坐禅をしておられた。私は私で、マインツ市の大学においてドイツ語でギリシャ語やヘブル語を学び、フランクフルトから北、およそ七十キロのところにある町の教会で、ドイツ人に彼らの言葉で聖書の講解や説教をしていた。私は思った、無法さんが安泰寺で行うのと同じことを、私はシュタウフェンベルクで行っていると。ネルケ無法さんの苦労と勇気と希望の大きさを思い、尊敬の念を覚えた。

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2. ネルケ無法さんの修行奮闘記

どこか外国に行き、そこで生活を建てることは、故郷で持っていたものを維持できないあるいは場合によっては失うことを意味する。職業、家族、友人、仲間とのかかわり、慣れ親しんだ環境、言語や文化、宗教等の従来のかかわりは薄れる。大抵の場合、自分の家族や友人達、自分の仕事そしてキャリアなどを失いたくないと思うはずである。それに対して、外国に行くことに決めて、故郷を離れる場合、将来のほうが、現在の環境よりも彼自身には重要だったと言うことだろう。他国へ移住することの長所は、自国にとどまることの長所よりも大きくなる。それまで持っていた自国にい続ける長所は、いまやハンディキャップに変わるように思われる。自国では自分の思うようなことができないので、結局、何かを失うことになるからである。

無法さんの本を読むと、彼がこのようなことを感じていたことを推察できる。いま、日本へ渡って坐禅中心の生活を学び知らなくては、なにか大切な機会を失うことになる。おそらく、ネルケ無法さんはそのように考えたに違いない。
無法さんの禅修行はどのように経過したか、彼はこれまで何を体験し、何を自分のものとしたか。これらのことは上記の『迷える者の禅修行』に詳しく述べられているので、それを読んでいただくしかないが、この本のカバーには以下の数行が書かれている。

「悩めるドイツ人青年の危機を救ったのは、祖国で出会った坐禅だった。出家の覚悟を決めて来日するも、そこで見たものは、この国の仏教のトホホな姿。算盤を弾くばかりの住職、軍隊のような禅堂、仏教に無関心な世と…。失望と流転の末、ようやく辿り着いた理想の修行は、小さな山寺での自給自足・坐禅三昧の生活だった。日本人が忘れた『一瞬を生きる意味』を問う、修行奮闘記」。

この数行はネルケ無法さんの本の要約である。

  • 坐禅は「悩めるドイツ人の危機を救った」。
  • 彼がこの国で見たものは「仏教のトホホな姿」。すなわち、
  • 「算盤を弾くばかりの住職」「軍隊のような禅堂」そして「仏教に無関心な世」。
  • 無法さんの「失望」と「流転」。
  • 彼の達成したもの。「小さな山寺での自給自足・坐禅三昧の生活」。
  • 無法さんは「一瞬を生きる意味」を問うた。これは日本人が忘れていた(る)ものだった。彼は外国から来て、日本人に彼らの忘れていたものの何かを示した。
  • これは「修行奮闘記」と呼ばれるべき記録である。その中に日本という国が鏡に映されるように描写されている。

誰が上記のカバーの広告を書いたかわからない。出版社の誰かだろうか、それともネルケ無法さんか、それとも両者の合作だろうか。さまざまな事情の組み合わせによってネルケ無法さんは安泰寺の住職となった。外国からの修行志願者たちの指導にもあたっている。それにしてもなぜ、国を離れてまでも安泰寺で禅修行をしているのか。誰かが彼にそうしなさいと命じたわけでも、頼んだわけでもない、「失望と流転」にもかかわらず「奮闘」「自給自足・坐禅三昧の生活」を享受するところまでこぎつけたのか。不思議である。きっと隠されたわけがあるかもしれない。これを成就しなければ片付かないような困窮あるいは喪失感があったのか。その正体が分からず、それを片付けようと一所懸命やっているうちに、気づいてみたら住職になっていたのか。動機は何だったのか。心惹かれる。

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3. スティーブ・ジョブズのスピーチ

無法さんは『迷える者の禅修行』を書いた翌年、二〇一二年、『ただ坐る』を出したが、その「はじめに」の冒頭に、スティーブ・ジョブズが二〇〇五年六月一二日、スタンフォード大学の卒業式で行った十五分スピーチから最後の行を引用した。「空腹であり続けよ、愚かであり続けよ」と。自分とって大事なことであって実現したいと思うことは、たとえそれが冒険となるとしても、全身全霊を込めて成就しなさいと言う。かりに「空腹」に苦しむとしても、人から「愚か者」と言われても!ジョブズのスピーチは三つの物語を含んでいた。三つ目のそれは「死に関すること」だった。これは彼ががんの宣告を受けたことに関わっている。空腹で、愚かであり続けよとの言葉は、このことを語ったあとスピーチを締め括る言葉である。私は三つ目の物語である死に関する語りそのものの結びの数行をここに引用しておこう。

「あなた方の時間は限られています。だから、それを誰か他人の生を生きながら浪費しないでください。他の人々の考え方の結果とともに生きると言うドグマの罠に引っかからないでください。他人の意見の騒音にあなた自身の内面の声を溺れさせないでください。最も重要なことですが、あなた方の心と直感に従う勇気を持ってください。それらは、なぜか、すでに本当にあなた方が成りたいものを知っております。他のすべてのことは第二義的なことです。」

この数行はジョブズのテキストの私訳だが、引用は三つの思考の組み合わせである。

  • あなた方の時間は限られている。
    ジョブズは、彼のがん宣告をきっかけに悟ったことの中身をこの一文にまとめた。そしてそこから四つの勧めを引き出した。
  • その一、自分の生を生きよ。
    その二、他人の思考の結果に惑わされるな。
    その三、他人の意見の騒音で自分の「内面の声」を消させるな。
    その四、自分自身の心と直感に従え。
  • 心と直感はあなたのなりたいものを知っているので、それに耳傾けよ。

私はジョブズの死後、彼のスタンフォード大学でのスピーチが報道されたとき、その内容に感銘を受けた。すぐにその大学のホームページからスピーチの全文をダウンロードし、それを日本語に翻訳し、私のロゴセラピスト教育研修の生徒さんたちに配布した。それについて彼らと語り合った。今、ネルケ無法さんもこのスピーチに感銘を受けていたことを、本を通して知った。彼も、ジョブズの言う四つの勧めと、「自分自身の心と直感に従う」ことの間違いなさを知っていた。この知は実は、すでにネルケ無法さんを動かしていた。だからこそ、彼は「失望」に反抗して希望を見つけ、「流転」の中に確かさを確認できたのだ。「仏教のトホホな姿」を超えた禅修行ができるようになり、「葬式仏教」を越えられたのであろう。

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4. キリストとブッダ

ネルケ無法さんは道元の『正法眼蔵』を読み進んでいる。『正法眼蔵』は道元禅師の生涯の著作シリーズにつけられた名である。私は今から四十年ほどまえに義父をとおしてそれを学び知り、そのシリーズから『現成公案』という一巻を中心として道元のブッダ像を描写したことがある。同時に、キリスト教の聖典である聖書の中から『ヨハネによる福音書』という一巻を引用しながら、この福音書記者のキリスト像も描写し、それを道元によるブッダ像と並べ、両者が、相互にさまざまな次元とレベルにおいて重なる可能性を示唆したことがある。キリストとブッダ、この両者に耳を傾けることは人間を改造すること、自己を作り直し、単純にそして力強く生きることを意味する。信仰者および宗教家たちは、人々がもっともっとキリストとブッダの対話に参加できる環境を創れれば良い。このようなことを私は三十歳代の初めごろ、『キリストとブッダ』という博士論文を書きながら考えた。ネルケ無法さんがキリスト教国からに日本に来て禅を修行し本を書くとき、彼は事実上このような対話を行っているのである。無法さんが日本に来て、禅修行をしたがゆえに、彼はキリストとは無関係となったのではなく、彼はドイツという社会の中で受け継いだ能力も使いながら禅修行をしているのである。その意味で、無法さんは対話をとおして、自分自身を認識し、それまで受けついだ彼の精神的な伝統の質を確認しているといえる。ネルケ無法はただ単に、道元や曹洞宗の伝統を模倣しているのではない。仏教とキリスト教の一つの総合を果たしているのである。

ネルケ無法さんの本を読みながら、知らず知らずのうちに彼と対話している自分に気づく。同時に、私のドイツ体験も私の意識に上る。かの地のキリスト教会は税金で賄われているので、民族教会(die Volkskirche)と呼ばれる。それは安定している。私はそのような教会で仕事をした。ネルケ無法さんは民族教会に興味を示さないが、私自身、そこで冠婚葬祭はもちろん、教会のある町の様々な行事にも携わった。信者さんたちと日曜ごとの礼拝を守った。病院や教会立学校そして福祉施設が建てられ、運営されるので、これらの場所に出向いて仕事することもあった。牧師として病人を尋ね、学校では週四時間、宗教教育を行い、福祉施設で仕事をする必要もあった。国は国民の物質面を配慮するのに対して、教会は人間の精神面の配慮を提供することが仕事になっている。市町村には、政治の長と教会の長がいて、両者ともに、町村の住民の為に指導的役割を果たす。今振り返ってみると、私は市民のために心を砕いて働いたと思う。地域の小、中、高等学校において、時には、大学や市民大学において宗教学者たちとセミナーや講演会を行った。ヨーロッパ内外の紛争地域から避難民が来ると、救済のために働いた。ドイツが東西に分割されていた頃は、東ドイツからの亡命者の世話をした。そのための組織づくりをするのも牧師の仕事であった。特に私には、日本人としてキリスト教徒とアジアの国々の人々を橋渡す仕事もあった。日本の教会では、牧師はこのような範囲において働くことはないと思う。ドイツにおいては、仏教をはじめ、東洋の諸宗教とのかかわりを教会の中でも論ずることがある。今振り返って、私は、牧師が様々な仕事をすることはよいこと、意味深いことと思う。ネルケ無法さんには親戚の中に牧師をしている方がおられたけれども、教会に物足りなさを感じたかもしれない。キリスト教会の中で、禅修行はできるはずはなかったからである。それをするために、彼は日本に来なければならなかった。私は私で、ドイツで体験できることを体験するためにかの国に渡らなければならなかった。ネルケ無法さんは日本で偉大な仕事をしているのだと思っている。ネルケ無法さんの存在に注目し彼を訪ねていく日本人が多ければよいとも思う。このことは、私には興味深いことである。日本はこれから、たくさんの無法さんを必要とするだろう。

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5. 人生から生き方を問われる

なぜ、私はそもそもネルケ無法さんを話題にしたのだろう?
その理由は、ネルケ無法さんが彼の新書本の最後の章の終わりの箇所で、彼は「『迷える者』であり続ける」といい、フランクルを引用しているからである。ロゴセラピー研究所長としてこれを見過ごすわけにはいかない。無法さんは、坐禅を二十七年間もやって、「人生問題の解決」を得られたかどうか?という彼の読者からのありそうな問いを拾い上げる。彼はそれに次のように答える。

「実は、『人生の意味とは?』という問いに対する答えを坐戦が導いてくれた、といえばうそになります。
『いや、坐禅そのものが解決であった』というのも、ちょっと違います。
そうではなく、坐禅によって、私の求める方向性がガラッと変わったのです。」

無法さんははっきりと、坐禅は「問いに対する答え」をもたらしたのでも、坐禅そのものが解決になったというのでもないと言う。そうではなくて禅は、そもそも「求める方向性をガラッと」変えた。これが彼の答えだった。それはどういうことであるかを説明するために、彼はフランクルを引用する。

「私たちが『生きる意味があるか』と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。」

ネルケ無法さんは、この引用に続ける、
「人生においても、坐禅においても、いったい何が正解なのか、私はいまだにわかりません。しかし、『人生とは何か』『坐禅とは何か』というふうに、よそに向かって問うことだけはやめました。一瞬一瞬、この私自身の生きる態度が問われるのだ、ということに気づいたからです」。
問題は、「人生とは何?」「坐禅とは何?」ではない。むしろ、「この私自身の生きる態度」がどうなっているのか。すべては、この問いにかかっていると言う。フランクルはこの問いを問題にしている。私が、ではなく、人生そのものが私の生きざまを問うてきている。私自身はただ正直に、この私に懸けられている問いに答えるだけ、これが「求める方向性をガラッと」変えると言うことである。

無法さんは彼の二十七年間の坐禅を問う中でまずフランクルから、問いの立て方を吟味することを学んだ。つまり、無法さんは彼がすでに属する坐禅の伝統の中から、自分の好みに合う問いの立て方を作ったのではない。私はこのことに注目したい。自分勝手な問いの立て方を設定しないで、他の伝統から問いの立て方の尺度を選んだ。彼には、その分だけ思考の幅ができ、客観的に自分の立ち位置を吟味できた。独善を排しようとした。そのうえで、彼は曹洞宗の伝統を調べて、道元の『学道用心集』から二つのテキストを引用する。煩を避け、一つだけを彼の現代語訳に従って引いておく。
「迷いの中にいるからこそ得られる確証なので、いよいよ迷いがまっとうした時にも、この修行を続けるのみである。」
禅修行は迷えるものを拒否しない。それは迷いの有無に影響されるものではない。それは『現成公案』巻の冒頭の文章の最初の言葉、「仏法(ダルマ)」すなわち宇宙を支配する理法そのものにつながる行為であり、人間の状態としての迷いを超えている。だから、ただひたすら修行を続けるだけだ。そのようなネルケ無法さんはまた、いつまでも迷い続けていく、そうある以外に道はないし、それでいっこうにかまわない。これは、彼の確信となった。

「私の禅修行は、『迷いの解決』を求めるためのものではありませんでした。坐禅に問われ、作務に問われ、家庭生活に問われ、この日々こそ私の修行であったのです。そして、この『迷える者の禅修行』を人々と分かち合うことこそ、これからも私の努めであり続けるのです。」

無法さんは最初から最後まで人生から問われる存在であるというフランクルの考え方、そして道元の考え方に連なりながら、彼の修行態度、すなわち坐禅、作務、家庭生活等ありかたを導くと言う。それだから、迷いを恐れないとした。これを確認して無法さんは『迷える者の禅修行』という彼の著書を結んだ。禅修行に対する彼の信頼は深い。

人生が私の生き方を、否応なしに問うてくるのなら、これほどありがたいことはない。なぜなら、私はその都度、私に懸けられる問いに態度するだけ、そのことに最善を尽くすだけでよいからである。このことはもうとっくの昔に決められている。これは私の定めである。イエスという方の生き方を習うとか、ブッダに倣って禅修行をすることもまた、このただ最善を尽くすことの一つのかたちにすぎない。このような認識を踏まえて宗教多元的な生き方ができることは、現代に特有な精神状況への貴重な貢献となることは疑いないことと思う。

仙台、2014年5月26日

追記:諸宗教との対話を行いながら、未解決の問題にお悩みの方は、遠慮なくご連絡ください。相談に応じたいと思います。

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