ヴィクトール・フランクル:意味と責任
マンフレット・ヘフレによる
- その企業教導のための意義 -
訳者のまえがき
二週間ほど前、ドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会「労働世界と経済」部門長、経営コンサルタントで弊研究所長のコーチでもあるパウル・M・オストベルク氏は以下に訳出するエッセイを彼に届けてくれた。弊研究所長はそれを興味深く読み、彼のホームページの読者にも有益に違いないと考え、それをこの対話の広場に掲載することにした。このエッセイが私たちに対話を促すことになるとよいと思う。
エッセイは経営コンサルタント、マンフレット・ヘフレ氏の筆になるが、彼は親切にもオストベルク氏を通して、著作権を主張しないで弊研究所長に転載を許可してくれた。ヘフレ氏に衷心より感謝いたします。
洋の東西を問わず、現在の経済の体制と労働の仕組みは人間をその本質から疎外させ、必ずしも、私たちをハッピーにさせるようになっていない。ヘフレ氏は手短に、至る所に顔をのぞかせている「危機」を描写する。それに対するフランクルのロゴセラピーからする応答を四点にわたって明晰に素描する。最後に、この応答に対応する企業教導の路線を同じく四点にわたって論じている。
所々、一見、難しいように見える文章や言い回しもあるかもしれないが、論旨は明晰なので読み進んで欲しい。「人間は意味に満ちた人生のために努力しなければならない」この単純な総括の中に、すべての困難にもかかわらず、私たちの物心両面にわたる基本線、人生のトータルな救いは隠されているのだと思う。働くことの大変さと同時にその約束と希望も語ることができるに違いない。
以下、マンフレット・ヘフレ氏のテキストである。
1. いたるところに存在する危機
社会と経済の憂慮すべき状態が話題となるなら、それは常套句のように聞こえる。青年たちの不安は、この状態に対する特に目立つ症候である。ヨーロッパの大部分の国々におけるほとんど二人に一人は失業者であるという青年たちの状態は、二十世紀前半の「失われた世代」の思い出を覚醒させる。違いは、当時の青年たちの状態は、二つの破滅的な戦争が原因だったことだ。それに対して、こんにち、多くの職業の初心者たちにおいては、不安は永続的な「見習い」とともに始まる。青年たちには教育が不足し、硬直した社会は彼らを受け入れる融通をますます欠く傾向がある。このことに直面して、若者たちはますます不確かになり、希望を失っていく。この不確かさと希望のなさは、彼らの気分の状態となり、そのようなものとして広がっている。
別の角度から見ると、福祉社会は、物質的富を確保しようと努力するのであるが、それはますます富の限界を経験する。アメリカ合衆国の研究によると、物質的幸福の頂点は手取り収入で計算してみると、75,000ドルあたりにある。消費ゆえの消費は、ただ単に比較的大きな幸福を作らないのみならず、いかなる人生の意味も作らない。経済的成長の反復も、そのように見ると、あまり意味をなさない。人々が休むことなしに働き、しかも同時に消費するよう誘導する広告によって惑わされるなら、これはまったく意味をなさない。社会的ネットワークは、突然、ある依存装置へと変質してゆく。それは、あらゆる手段を使って、結局、意味深いものそして価値あるものへの注意を奪う仕組みとなっている。注意が不足するということと文化が高度に発達することとは、相容れない ― このようなことは歴史的な経験である。
福祉国家も、いかなる意味も、いかなる生きられた連帯ももたらさない。せいぜい生活費に対する多少なりとも間に合う物質的な調整をもたらすにすぎない。見せかけの社会的業績も、きたるべき世代の負荷を増大させる。これは責任を負うものなき、災いの多い過程である。
資本主義は、意味を樹立しない。なぜなら、それは、その核心においていっそう少数者たちのいっそう多くの富のための競争システムにすぎないからである。古典的な資本主義には、福祉への共同の拘束は欠ける。この欠点は、カリフォルニアに住む多くのインターネット業界のボスたちの出費態度の中に示される。それはわざとらしい慈善事業に見られる。資本主義的経済様式は、その制御されない前進への衝動において、すべての生活領域を経済化し、意味のテーマである教養、友情、愛そして配慮の価値を剥奪し、教養と社会化の細胞としての家族を弱める。通常、それに伴う世俗化は、人生の深い意味を無視しあるいは陳腐にする。
他方、社会主義は、それがユートピアとビションとして現実の中に入ってきたとき、人々を完全に幻滅させ、かつて崇高だった社会目標を政党幹部のために放棄し、経済システムとしては見事に挫折した。それは、価値の保護においても全面的に失敗した。
調整的な社会的市場経済 ― そしてそれとともに民主主義は、それが包括的であることがますます少なくなり、自らを特別な興味に引き渡すなら、その強さを失う。我々の時代において、著しく模範と意味を媒介する者たちが欠けることを確定することができる。政治の増大する部分と、経済における指導人格たちと、自らを知性的人間と考える人々は、自分たちが模範を示す義務を負うと考えなくなった。消防士と看護師は評価の等級においてまったく上位に位置し、政治家、ジャーナリストそして銀行員はまったく下位に位置づけられるなら、この差は多くのことを語る。マネージャ、特にトップマネージャは尊敬されることは少ない。これらの状態の描写は、ヴィクトール・フランクルが30年前にアメリカのために確認したそれに似ている。過剰社会の結果として無意味感は広がり、それが集団ノイローゼとなっている。退屈、職業上の忙しさ、人生における焦点の欠如、うまいことを言って騙すあるいは依存させる消費。「余暇」におけるストレス。遠くない過去において見られた心の病の増大。共同体の解体。すべてこれらのことは、失敗する社会、少なくとも機能しない社会のしるしである。
2. ヴィクトール・フランクルの四つの答え
意味は、人間の努力の中心になければならない。意味は、方針を支える、個々人と共同体に安心を与え、個人的な責任を強く求める。そのような基盤の上で、価値の創造は栄える。それは自らを、鍛錬、改善、卓越そして創造性の努力によって養う。 以下に、経済あるいは企業を教導するための示唆へのフランクルの応答があるが、それは特別な重点を含んでいる。
第一に、責任なしの自由は破壊的である
「本当の自由は、何をしてもよいと言うことではなく、それは責任と一つに結びつく」 フランクルは彼の有名な本の中で、USAの東海岸の自由の女神像を西海岸の責任の像をもって補うことを提案した。なぜなら、自由は、彼によると、密接な結びつきを必要とする。自由には、自己破壊への能力が内在するので、決して緩慢な結末に通ずることはないからである。経済的にいっそう強い者の無理な要求を考えてみよ。彼は、いかなる遠慮もなく他者を抑圧する。市場を支配するための独占の歴史が、― 最近では大きなインターネット‐プロバイダーにおいて ― 十分に示すとおりである。しかし、また個々の従業員の(自己)搾取への傾向も考えてみよ。一つの別の関連を示唆すると、財政危機は、すべての法的な可能性を巧みに搾取しながら、いかに責任を取り外したか、いまもなおいかに常に取り外しているかを明らかにした。
一つの矛盾を指示しよう。人は、しきりに持続可能性について語ったにもかかわらず、顧客を救いあげることは、その分だけ大きくなったとは決して言えなかった。すべてのいわゆる厳格なリスクマネジメントにもかかわらず、そして最高の点数を与えられた評価にもかかわらず、多くのもてはやされた財政製品は、「価値のない商品」であることが明らかになった。国家的介入がなかったなら、多くの研究所は崩壊しただろう。そこから引き出すべき結論は、単純ではあるが、実際に行うことにおいて複雑だった。責任は、語り掛ける対象と、社会的な確かな枠を必要とする。責任ある者は、知られていなければならず、そしていつでも要求され得なければならない。匿名で行動する者、複雑なシステム、透明な経過、入り組んだ構造は責任性を後押しする。問題あるグループは大きな構造である。それは大きい(大きすぎる)銀行、保険会社、企業(最近は爆発的に成長するインターネット、演出者と地球規模のIT産業)、大きな公衆社会に該当する原子のような所有構造は他のことを、すなわち、責任を非人格化し、そしてそれとともに、責任から力を奪うことをやってのける。容認された自由は、証明された責任を通して獲得されなければならない。責任の獲得は、平坦な、一直線の道の上においてではなく、石だらけの登り道を通して遂行される。これは、教導のうえに適用されるなら、保護観察はキャリアに先立つ課題の中になくてならないことを意味する。キャリア主義は責任にとって有害である。形式的なコンプライアンス(「アメリカのビュロクラシー」と言われる)と推敲されたマイクロコントローリングを持ってするコントローリングと同じように。
自由の原理は、責任による補足を要求する。ヴィクトール・フランクルの言葉で言えば、「自由は、その積極的な側面が責任であるような全現象の否定的な側面にすぎない。実際、自由は、もしそれが責任の方向に生きられないなら、単なる危険の中にある。」
第二に、状況ではなく、個人的な決断にかかっている。
人間は自己決定的であり、決断できる。ヴィクトール・フランクルは、非常に多くの科学的イデオロギーの根本に横たわる決定論的人間像のはっきりとした反対者である。それに対する深い根拠は、強制収容所における彼の実存的経験の中に見いだされる。それによると、人間は恐ろしい事情にもかかわらず、「豚」のようにあるいは「成人」のように態度する選択を持つ。多くの報告から知られるように、少数の「人間的な人間」はこの地獄においてさえ存在した。人間は、まさに、固定されておらず、彼の態度はいかなる単純な因果法則にも従わない。企業に移し替えると、清廉潔白によって導かれたあるいは欺瞞によって導かれた企業が存在し、そして両方から少量だけを自らの中に取り入れた多くの企業がある。得と利益におけるすべての考えにおいて、このようにあるいはあのようにふるまう選択が存在する。選択の可能性は企業の先端において最も大きい、それは従業員の態度のための本質的な模範となる。しかし、堕落にもとづいた企業の中でも、誤魔化しを耐えている企業の中でも、個々人はそれに同調するかあるいはそれに反対するかに関する彼の個人的な決定から解放されない。清廉潔白な商人の「研究所」は、正直を最高の商人の戒めとなす内的、自己決定的態度のための良い身元保証人である。その態度は、社会が違反を脅かすことの承認である。
事情が危険でないなら、行儀をよくすることは容易である。しかし、例えば、忠実な従業員あるいは個人的に良い知り合いに退職通知を出すことが問題である状況においては、困難である。このような場合、何がふさわしく、何がふさわしくないか? 選択は、会話をし、説明することである。調査あるいは調整の際の活動的な援助の約束を、会話に結びつける。いわゆる卓越した企業において、しばしば起こるように、解雇通知はE-メイルで行う。
この箇所で逆説的な観察を指示しようと思う。
リーダーシップは、こんにち、かつてないほど非常に多く語られる。(昔はつつましくマネジメントが語られた)そして、こんにちほど行儀における大きな欠陥は存在したことはなかった。語ることと行為のこの乖離は共に、(グループとしての)マネージャ、多くの財政研究所、そして多くの企業の尊敬の喪失に与かっている。この乖離に反対する手段は、単純に正直と性格である。これらのものは再び、人事選択の基準および発展として評価されるべきである。これらの性質を専門的、描写的そしてマネージャ的能力と比較してわずかしか評価しないことは、粗雑な間違いである。意識的、個人的決定は、ある自己決定的人間を要求する。モードによってであれ、消費によってであれ、グループの圧力によってであれ、企業の先端の指示によってであれ、画一主義によって導かれる人間は、不純な態度に陥りやすい。
第三に、目標に引かれるか、それとも活動に駆り立てられるかは決定すべきである
駆り立てられることは、この時代の症候である。地球化とインターネットはこの二、三十年間、予想されない程度に世界を速く、かつ小さくした。活動主義はただ単に労働においてのみならず、イベント、ゲーム&旅行を内容とする「余暇」にも遍在する。それによって人生の目標による吸引力は、弱くされ、それは少なからぬ場合、まったく失われる。
ヴィクトール・フランクルによると、人間は、基本的に将来へ向けられ、約束に関わる。彼は、彼の自己規定可能性に基づいて普通、目標に開かれ、そして内的な態度に対して自由である。これらのものは個々の課題と活動に関わると同時に、また根本的・存在論的/実存的でもあり得る。しかし、問題であり、病気へ通じ得るのは、自己関係である。なぜなら人間は、その場合、円を描いて回り、そして自分の上に固まるからである。不可避的なのはノイローゼである。企業もまたノイローゼ的特徴を発達させ得る。それが過度に組織化され、極端に自己利益を求める場合である。企業が、すべてのマネジメント様式へ譲渡され、常に組織替えをし、もはやいかなる明晰な方向も知らないならば、そうである。その時、人はマネージャ主義的態度について語る。この関連において二つの逆説は指示されるべきである。
最初の矛盾は、ビジョンについて、持続性そしてまた絶え間ない人格成長の意義について常に語ること、同時にジョブ・ホッピングあるいは成長する用意を伴った活動主義である。
第二の矛盾は、一方で知のマネジメントに熱心になること、他方では反省への能力のないこと、失敗から学ぶ熱意の欠如である。「短期的な考え」に豊かな、忠実な、経験ある従業員を分離して、多く賞賛された「学習する企業」を生み出す。
第四に、意味は見つけられなければならない、それは生み出されることはできない
人間の実存的意味は、自己超越、すなわち、自分の人格の外にある意味によって見いだされ、経験され得る。意味は、ただ人間だけに固有である。企業はある目的を満たす。それは顧客に利益をもたらし、そしてそれを超えて共同体に奉仕することによって、その目的は利益を得ることを超えてゆく。企業は、意味深い仕事を可能にすることによって、それは意味の充実への一つの貢献をなす。それは。一日の、そして人生の経過を両方の長所へ構造づけることへ、従業員の能力を生産的に使いそして展開し、共同体を形成し、従業員の自己価値を上げることへ貢献することができる。しかしまたまったく反対のことをすることもできる。仕事は、それが意味深いものであるなら、金を儲ける以上のものである。
福祉国家そしてそれとともに労働組合は、継続的に道具的な見方において仕事の意味性を過小評価する。仕事は自らを、もちろん、役に立たないもの、余計なものとして証明することができる。その場合、それは自らの価値を剥奪し、参加する者を幻滅させる。意味深い活動への探求は、人間の尊厳にふさわしく、そして意味のある満たされた人生への努力と一致する。ふたたび逆説的な発展は目立つ:第一に、資本市場によって要求された短期的そして一面的に利益に固着した成果への焦点化は、多くの、長期的成果のために必要なアンガージュマンあるいはコミットメント、とりわけイノベーション能力を破壊し、そしてそれとともに自分自身を沈下させる。
第二に、これまでまだ、あまり多くの成果の案内と約束は存在していない。多くの、紛らわしいパッチワーク・コンセプトがある。そして意味の発見と意味充実はあまり射当てられていない。企業における指導のためには、ただ単に成果にものを言わせないで、目標達成への業績は顧慮されるべきとする洞察は、重要である。純粋な目標方針(合言葉: 目的によるマネジメント MBO)においてこれは見過ごされる。
同じように、これ以後、広げられ得る刺激によるシステムにおいて、報酬よりも業績はいっそう包括的に評価され得る。それはしかし、指導(リーダーシっプ)を要求する。目標においては、第一義的 ― 人生の作品を生むことはそのようなもの ― と第二義的 ― キャリアといったもの ― における区別が重要である。この区別の結果は、受動的生活から形成する生活への転換へ導くことができる。人間の尊厳はその時、展開される。
3. 企業教導のための基本線
「人間はただ単に幸せであろうとするのではない ― 彼は幸せであるための根拠を欲する」
幸福とは、内的覚悟を持って生きることである。すなわち、自分を受け入れ、自分と一致し、他者を敬い、敬われ、他者と交わる覚悟があり、他者によって問われることを意味する。
幸福は、その核心において、ある人格の生命の深さと成熟と関わる。
人格は、人生が制限されているという経験なしには、そして苦悩することと共感することと愛することなしには可能ではない。
生産的な社会的結びつきとしての企業は、従業員を促進し、彼らを、要求することに関心を寄せるよう導かなければならない。ピーター・ドラッカーはこれを執拗に要請した。企業は良い仕事環境を提供し、そして豊かにする共同生活を可能にすることができる。企業が一致をもたらすなら、それは限度を超える個人主義を防ぎ、繁栄する企業成長を確かにする。
ヴィクトール・フランクルの総括的に豊かな考えの宝と経験の財産から四つの教えを引き出すべきである。それらは自己および企業の協働のために重要である。
第一に、
為されたことについて、自分と他人に責任を引き受けることは、個々人の義務である。この態度は、実存分析から出てくる人間像に対応する。
第二に、
自分を要求のもとに置く。それ自身において、そしてそれ自身に関して意味深いものが為されることにより、状況の要求に応ずることを意味する。この要求は、生活することの普遍的原理である。従って、態度は、私的と職業的と言う二つの部分に分離できない。「商売モラル」あるいはビジネス倫理というような判例主義的な接近の仕方は、制限されており、誤りに導く。なぜなら、それは種々の要求を仮定するからである。
さらなるポイント:自分を課題、委託へ捧げることは、できるだけ課題をよく行い、そしてただ単に結果を届けることではない。委託を満たすことには、道徳的限界を守りながら、十分な程度の自由を保持することは必然的である。企業的行動は、常に責任的でなければならない ― これは、持続的である以上のことである。仕事は価値創造的であり、単なるジョブであってはならない。なぜなら、コミットメントは、一つの課題、委託に献身するという情熱的な言葉を使わないとしても、承認と業績についての満足によってだけ生まれる。それゆえ、無意味な仕事、ビュロクラシーそして収拾がつかなくなったコンプライアンスに対する批判は、真剣にとられなければならない。
仕事の意味を解明することは、企業指導の重要な課題である。それがうまくゆくと、経済は共同体にとって役に立つものとなる。企業は、自らに信ずるに値する委託を与えるべきであり、そして、ただ単に排他的に大きさあるいは売り上げ、成長と利益あるいは資本利子というような目的にだけ焦点化されてはならない。
第三に、
適度であること、節度あること。
ヴィクトール・フランクルの言葉を使えば、次のようになる。「もっとも理性的なことは、 … あまりに理性的になろうとしないことだ」。すべての絶対化は、これは権力と利益の最大化であり、それは人間にふさわしくないし、長く続かない。まさに企業においては「あれもこれも」の原理を熟考すること、すべての種類のチャンスと危機があり、それゆえ、両者の「間(あいだ)」を考量することは重要である。しかし、多くのマネジメントのコンセプトは一面的な、純粋な理性的な思惟の型の中に根差す。それは外の人間を先に行かせる。それゆえ、その型を放棄しても、害はない。
第四に、
要求の多い目標を置くこと。
個々人への期待と自分への要求は、高いところに置かれるべきである。ただそうするときだけ、努力し、いっそう良く他者のために価値あるものとなろうとする創造的緊張が生長する。ヴィクトール・フランクルはこの態度のためにヨーハン・ヴォルフガング・ゲーテの、時を超えた認識を使った。
「我々は人間を、彼があるがままに受け取るなら、彼をいっそう劣った者とする。しかし、彼を、彼があるべき者として理解するなら、彼を、彼が成ることのできるような人間に造るのだ」。
ヴィトール・フランクル、この偉大な人間、人間知ある者そして科学者は次のように総括される。
人間は意味に満ちた人生のために努力しなければならない。
企業はその際、邪魔になってはならない。
それは、むしろ、助けに満ちたものとなるべきである。
マンフレット・ヘフレ
2013年12月19日