尚絅学院大学学生のためのスペシャルトーク

2011年11月7日 午前11時15分〜30分、5E教室

「いま考えていること」について「総合人間科学部」の枠内で話してほしい、というのが私への依頼でした。この依頼に感謝申し上げるとともに、与えられた15分以内でできるだけ分かりやすくそれにお答えしたいと思います。

スペシャルトークという談話シリーズが設けられたキッカケは確か、8か月前の東日本大震災に関わっていると記憶しております。あの出来事は今もなお私の考え方、生き方そして働き方に影響を与えております。あの出来事から一定の時間が経過した後、それをどう見るかという課題があります。地震と津波はフクシマ第1原子力発電所の二度にわたる爆発事故を引き起こしました。放射性物質が放出され、それは国際評価尺度により、25年前のウクライナのチェルノブイリ原発事故と同じ、レベル7、すなわち世界最大級の規模であると判定されました。このことは日本と世界にとって何を意味するかという問いはそれ以来、私に付きまとって離れません。私たちの生活環境、否、世界そのもの、そしてそれとともに人類は取り返しがつかないような仕方で変わってしまった。放射能に汚染された国土に生きることになったいま、私たちは全面的な人間改造をすることを余議なくされている。汚染に耐えるようこころとからだを改造しなければならない。

ここで少しだけ、こころについて考えてみよう。一般には、こころは「考える」とか「認知する」とか「感ずる」という作用を持つとされております。いま、これらの作用を放射能汚染に耐えられるよう進化させることが要求されております。

次にからだです。それは骨格とか筋肉とか神経とか臓器とか血液とか脳とか皮膚等々からできていますが、これらすべては放射能汚染に耐え、被害を蒙った場合、できるだけそれから回復する必要があります。こころの働きとからだの働きはそれぞれ独立したシステムではありますが、両方とも人間の存在に属します。からだはこころが存在するための物質的基盤になりますから、からだが放射能汚染に倒れると、こころとからだの統一体、すなわち心身有機体は崩壊いたします。

さらに、人間にはこころとからだの他に、第三のものとして精神が属しております。それは有機体に働きかけるとされます。こころとからだがばらばらにならないよう、両者を1つに結びつけます。19世紀の前半に生きたデンマークの哲学者、キルケゴールは「人間とは自己であり、自己とは精神である」といっております。彼のこの考え方はこの度の大震災以後の日本人にとっても依然として有効であると思われます。精神は人間の中にあって、人間の生活に価値と意味と目標を与えます。それは人間生活におけるこころの領域とからだの領域を結びつけ、この2つの領域のその時々のあり方を決定します。誰かが不安と絶望に陥るなら、それは彼の生き方、考え方が精神の働きに合致しない、それに齟齬しているという証拠です。誰かが自分の中に働く精神に目覚め、それを生活において映し出すなら、彼の生活と行動はその分だけ躍動いたします。これをいまの私たちとの関わりでいいますと、生活の立て方の細かい部分にまで注意を払いながら、自分の全存在を改造するということです。

現在の日本の国土の汚染の程度は深刻であります。先日、都内の大気からストロンチウム90が検出されたことが報道されました。この放射性物質の半減期は専門家によりますと29年で、骨に沈着して白血病を引き起こす原因になるそうです。因みに、しばしば耳にされるヨウ素は甲状腺を破壊し、セシウムは膀胱に蓄積することも知られております。日本人のからだは危険に晒されているということです。しかも、これらの放射性物質は体内に取り込まれますと、遺伝子に影響して世代から世代へ受け継がれることが分かっております。子供や若い人々においては細胞分裂が、例えば50年代の人々のそれに比べて圧倒的に活発なので、問題はその分だけ大きいといわれております。例えば、被爆して死亡する幼児の数は、被爆して死亡する30歳成人の数の4倍になるそうです。多くの親たちは子どもたちのことを心配しております。

先だっては、フクシマ第1原発第2基で、そして第1基と3基においても核分裂が起こり、放射性物質キセノンが発見されました。フクシマとその周辺の土地はさらに汚染度を加える可能性があります。政府及び東京電力は「大丈夫、被害はない」と控えめにいっております。ドイツのZDF放送局によりますと、日本の国民には政府と東電を信じる人はもはやいないだろうとしております。原子力学会も地震学会も自分達の力が至らず、これまでのやり方が間違っていたと国民に謝る風景がメデイアに報道されております。政府や東電や原子力学会や地震学会、加えてマスコミもこの8カ月にわたってかならずしも国民に正しい情報を流してこなかった。その間に、一部の電力会社は原発の再稼働を始めており、これをもって被災からの復興としております。「がんばろう、日本」という合言葉に従って、皆さん頑張っております。

「がんばろう」というキャッチが横行しております。私はいま重要なのは「考えよう、日本」「考えよう、東北」「考えよう、宮城」なのではないかと考えております。人は何かを頑張ってしている時、そのしていることの中身を疑うことは難しくなります。なぜ頑張るかを分からなくなったまま現状に固執する傾向があります。この意味では、がんばらない方が良い。むしろ考えることこそが求められております。誠にこのようなことなのですが、一方では、落ち着いてあたりを見渡すと、考えながら工夫をしている人々がいないわけではありません。そのような人々をここで報告したいと思います。私はこれをすることが許されていることを幸せなことだと思っております。

山口県の瀬戸内海にある小島の住民は、原発は危険であるとしてフクシマの原発事故に先立つ30年前から助成金を断ってびわ栽培などに頼りながら生活していると聞いております。九州西部にある2ツの町、そして福島県では南相馬と浪江町、これら4つの町は助成金を要らないとして、原発存続に反対の意思表示を行いました。

秋田県横田市在住の作家、むのたけじ氏は第2次世界大戦中、朝日新聞の従軍記者でした。彼は戦争責任を感じ、終戦の日に新聞社を退社し、その後、手作りの週刊新聞を発行し続けた人で、現在96歳。むの氏はフクシマ原発事故のあと間もなくして、「絶望すべきことにしかと絶望する」「希望は絶望のど真ん中にある」というメッセージを発信しました。つまり、絶望的な事態をありのままに見ること以外に希望は何処にもない。起こったことの中にだけ、その起こったことからの脱出のカギが隠されている。ですから、起こったことについて、それがどんなに困ったことでも、嘘をついてはいけない、といい続けております。起こったことを起こったこととしてしっかりと受け止めることで、自分が変わる。悔い改める。そのことによってこれまでどうしても超えられなかった事実を超える。この行為は精神の働きであり、生きることの意味と価値そして人間の尊厳を示しております。

最後に、平岡 敬というかつて広島市長を務めた人がおります。彼は中国新聞の記者に問われて答えております。

「放射性物質の人類に対する脅威について、軍事利用も平和利用も区別がないことを今更ながらに気付かされた。今の利益追求社会では、警鐘を鳴らす研究成果もゆがめられ、黙殺されてきた。恐ろしいことだ。必ずしも原発に固執すべきではない。『経済か、命か』という選択ならば、その答えは決まっている」と。

広島は長崎と並んで、今から66年前、第2次世界大戦における日本の敗戦との関連で永久に記念すべき町となりました。そこでは毎年、原爆が投下された8月6日にそれを記念して平和祈念式典が行われております。平岡市長は市長在任中、8年にわたり毎年、伝統に従い世界に向けて核兵器廃絶のための平和宣言を行いました。彼はいまこのことを思い出しながら、自分はそこで「原発反対!」とは一度もいわなかったことについて反省したといっております。そのうえで、今では、すでに引用た通り、「放射性物質の人類に対する脅威には、軍事利用も平和利用も区別はない」ことを認識したといいます。「経済か、命か」と問われれば、勿論、「命だ」というにきまっていると明言しています。ヒロシマとフクシマは平岡さんにおいて繋がりました。

人間はきちっと考えることのできない時があります。しかし、考えるべき時、考えることのできる時には、本当に全力を挙げて考えなければなりません。もと広島市長さんはこのようにいっているのだと思います。

私は学生の皆さんの1人ひとりが、フクシマ原発事故の大きさと悲惨を、そして同時に回復への希望をつなぐことができるということを自分の人生の中の事柄として考え、一生懸命勉強するよう心から願っております。

ご清聴ありがとうございました。

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