ニュースレター 第2号

2011年7月

希望を保ち、希望をつなぐ

安井 猛

2011年3月11日14時46分18.1秒、大地震と津波が日本列島を襲いました。それは特に東日本を中心に甚大な被害をもたらしました。その中には福島第1原子力発電所の爆発が含まれております。大地震、津波そして原発事故が重なったのですが、取り分け原発事故は東日本大震災に特別な性格を与えております。それはチェルノブイリと同水準、第7レベルの、世界的に前代未聞の事故とされております。ですから、普通の意味での復興は語れないほどの深刻さを持っているかと思います。農、魚そして産業の復興の障害として作用しますし、それは30年、50年に亘る事柄だといわれております。

例えば福島県沖で発見されたというストロンチウムという放射性物質は消滅まで30年かかると聞いております。復興基本法案は大幅に遅れ、各県が今やっと具体的に動くことができるようになりました。瓦礫撤去作業はこれからのことであり、被災者の中にはいまだ避難所生活を余儀なくされている方々もおられます。仮設住宅へ移った方々のなかにも、入居以後の生活に精神的な障害を抱える方の多いことも報道されております。

今朝の新聞の報道によりますと、宮城県で2名の方がストレスに勝つことが出来ずに亡くなっております。家屋財産の喪失は勿論、家族、友人、知人の喪失の消化は始まっているどころか、これからのこととして残るものです。漁業と農業と産業の復興が端緒に着き、失業者ができるだけ速やかに職を得ることが望まれます。私の勤務する大学では入学式が1月遅れだった関係で、8月一杯、お盆以外は授業があり、学生は大変です。

このような中で、読者の皆さま、元気にお暮らしでしょうか。
ニュースレター第2号をお届けいたします。この号のために「希望をつなぐ」というテーマを組みました。私たちの研究所に連なる方々から文章をいただき、それを掲載することをこの号の主要な目論見としました。お忙しい中、原稿をお寄せ戴いた方々にこの場を借りてこころからお礼申し上げます。

研究所関連の行事に関してご報告いたしますと、生涯塾、エニアグラム、手紙療法、ロゴセラピスト教育研修そして地域の市民のための「東日本大震災から元気を取り戻そう会」など行事は、大震災との関連で開催予定日を変更しながらではありますが、すべて滞りなく進めることができました。私自身について変わったことは?と問われれば、「やはり大いにあった」ように思われます。

これまで、遠隔地からのご希望を叶えることは様々の理由で難しいと考えておりましたが、問い合わせがあるのにそれを無下にお断りするわけにいかない。できるだけ希望をお聞きして、実現可能な限り個人的なプログラムを作りながら要望に応じることを実行し始 めました。

第2に、特に大学卒業後会社での勤務を始めた、22歳〜30歳ごろまでの若者たちにコーチング・サロンを提供すること。

第3に、弊ロゴセラピー研究所と同様な目標を持つと思われる人々およびグループとネットワークを形作ること。弊研究所はこのようにすることによって一層良く社会へ貢献することが出来ると確信しております。

東日本大震災後、日本人の全体においても、決定的に何かが変わったように思われます。誰方(どなた)に致しましても、この大震災の前にはもはや戻れないということ、戻ろうと思っても戻れない。なにか不可逆的なことが起こったということです。それ故、この度の出来事の結果を認め、受け入れ、その中で精いっぱい生きていくほかはないということです。大地震が起こらなかったら、… 海が、畑が、山が、学校が、プールが、家屋が、家畜が、あの人、あの人たちが難を逃れていたら、… 職場が無事だったら、… 等々の仮定は役に立たない。放射能汚染がなかったら、… 防災対策の想定範囲が現実に対応するほど広かったら、… 等々ということは、それ自身いかに正しい感覚だとしても、無益なことです。
何よりも、今のありのままをしっかり見る。その中にこそ展望が含まれている。嘆かないで展望は得られる。希望を保ったまま現在の真実を誤魔化さずに分析できる。私自身、職場でも研究所の仕事においても、いまの真実を理解しようとしながら毎日を過ごしてきました。この努力の一部を2011年7月9日、新潟素行会フォーラムの皆さまのためにお話しいたしました。その原稿を弊研究所のHPに掲載しておりますので、宜しければご覧ください。

ロゴセラピーの原則から申しますと、私たちの生活における問題を変えることができないなら、それにかかわる主体自身、私自身を、問題に関わる私の態度のとり方そのものを変えていく。私の問題に対する態度を、問題が問題であることを止めるほどまでに変えていく。この態度を変えるプロセスの中で問題となる当の状況を乗り越えていく。困った状況、破壊的状況の中に含まれる要求を聞き分けながら主体自身を変革していく。そのことによって状況そのものから可能性を引き出す。同時に状況そのものの限界が明らかになる。それ故、状況へ距離を取ることができる。そこから出てくる新しい状況は人間を苦しめることを止め、人間は生き方の次のステージを開発できるのだと思います。放射能汚染、安全に関する欺瞞、権威に対する尊敬の崩壊、資本主義の抱える矛盾、日本人が強いはずと見做されていた社会的連帯の脆弱さ等々が明らかになるからです。

ヴィクトール・E・フランクルは状況そのものとのこのような関わり方を「態度するという価値を実現すること」と呼びました。弊研究所を運営する中で、私はフランクル先生が生きる意味への通路の1つとして「態度価値の実現」という概念を遺してくれたことを有難く思います。一見受け身で弱いと見做されがちなこの価値の実現を通して初めて、逆に「人災としての原発事故」をめぐる責任問題は明らかになるように思われます。原子力発電所の存在そのもの、その安全を保証する人々の無責任さ、それらの人々によってを維持される原発の問題性を分析するなかで、現代日本人の生き方の倫理面での弱さをそれとして確認することができるはずです。原子力発電所を維持する努力の中でどのような欺瞞、そして「やらせメール」体質が入り込んでくるかが理解可能になるのです。

先ほど私は東日本大震災の後の弊研究所の活動における3つの変化に言及いたしましたが、第2のコーチング・サロンの開設と、第3の他の方々およびグループとのネットワークを組むことついて説明いたします。

コーチング・サロンの開設のことですが、これを明らかにするためまず以下のことに言及したいと思います。私は折に触れて、労働世界と経済におけるロゴセラピーの意義に関する論文をドラッカー学会機関誌『文明とマネジメント』において発表してまいりました。2011年5月には「第2回グローバル・ドラッカー・フォーラム・ヴィエンナ2010におけるイノベーション概念とその意義」という論文が出ました。昨年の11月、ウイーンで行われたこのフォーラムを訪問できませんでしたので、私はインターネットを通じて同時的に世界に発信されたフォーラムと、年末にウイーン・ドラッカー・ソサエテイのHPに公表された情報に注目しました。ヨ―ロッパの各国とアメリカから集まったドラッカーの弟子達がイノベーションについて議論するのを見聞いたしました。

欧米のドラッカーの弟子たちは、日本のドラッカリアンと比較して、経済のみならず人間の社会と人間の精神の可能性も論ずることに気づきました。私はドラッカーの処女作『経済的人間の終焉』から『ネクスト・ソサエテイ』とそれ以後の文献に目を通しておりますが、彼の関心は人間の社会のイノベーションにあったし、最終的には人間における精神的なものに関するそれにもありました。彼の著作を読み始めてから2年ほど経ちますが、私にはドラッカーが人間全体への関心を持っていたことは最初から明らかでした。この度のグローバル・ドラッカー・フォーラム2010の報告をとおして私は欧米のドラッカーの弟子たちが彼のこの人間全体への関心を受け継ぐことに感銘を受けました。このことを評価するために、私は先に言及した論文の中でドラッカーにおけるイノベーション概念の経済的、社会的そして実存的・精神的意味を論じました。それがドラッカー学会の機関誌に出た今、私は人々がこの論文にどのような反応を示してくれるか、ドラッカーに習いながら「経済を超えて社会へ」、「社会を超えて精神的実存へ」の道を辿るかどうか、そのための議論が継続されるかどうか見守っているところです。

この論文が出された後、私はドラッカーの弟子達が彼らの師の歩んだ道を辿ると同時にどのように独創的な仕方においてエグゼクテイブ・コーチングの原理を立てるかという問題に没頭いたしました。そしてしばらく前に「ピーター・ドラッカーに学んだ3人のコーチング・マスターにおけるコーチング原理と彼らのエグゼクテイブの実践への意義」という論文を脱稿いたしました。3人のコーチとはマーシャル・ゴールドスミス、ジェームス・フラハテイそしてステーヴィン・R・コヴィーですが、彼らとの対話を通してこれからの日本におけるコーチングの可能性を探りました。

彼らは3人とも、経済分野におけるコーチングはトータルな人間理解を必要とするとしました。特にコヴィーはコーチングを基礎づけるために、ヴィクトール・フランクルの人間観を使い、かつ興味深いことにフランクルをマハトマ・ガンジーと並べて評価しました。
ガンジーはいうまでもなく非暴力的にインドを英国から独立させた指導者です。この英雄はリーダーシップ理論の中においては「奉仕するリーダーシップ」の代表者とされております。コヴィーはまさにこのような関連においてヴィクトール・フランクルを理解しました。フランクルは「自分自身の中にボイスを聞き、他の人々が彼ら自身の中にボイスを聞くよう導いた」としました。ステーヴィン・コヴィーはこのようにドラッカーとガンジーとフランクルを結びつけております。

他方、私はこれまでフランクルの弟子たち、たとえばベックマンやピルヒャー・フリートリッヒなどがロゴセラピーを労働世界と経済の領域において適用したことに注目してきました。いま彼らとの出会いはドラッカーとその周辺の人々の研究を通して一層普遍的意義を獲得することになりました。そこで私はこの成果を我が国の特に20代〜30代の始めに位置する人々すなわち職業生活の始めに立ち、迷いがちな人々のために生かしたいと考えております。この人たちはこれからの日本の経済および社会を背負って立つ人々です。私はこの人々の為にも研究所のプログラムを解放しなければならないとのかねてよりの願いを実現することになりました。

もう1つ、志を同じくする方々そしてグループとネットワークを組むという考えですが、このたびの大震災のあと旧知の方々と改めて交信致しました。研究所とのネットワークを組むことが可能かどうかと尋ねたましたところ、何人かの方々から協力を得ることができました。このことに対してこの場をお借りして衷心より感謝申し上げます。殊に14年前、23年振りに帰国してしばらく経った頃、日本という国の現在の精神状況を知りたく、東京の当時青山で開催されていたクリシュナムルテイの会と連絡を取り、それに参加させていただきました。生きる意味を求めて、色々と考えたり、話したりする人々と出会い、このことを通して同時に日本を改めて学び知ることができるかもしれないと思ったからです。このグループにおいてどのように求道心が生きているかを見させてもらったことは、私自身が再び「日本に帰化する」助けになりました。その後、連絡が途絶えておりましたが、この度の震災を機に再び、親交を温める事が出来ました。この会の世話人をされている笹原愛子さんが、被災地を慰問され、その折に仙台でもお会いできたことは光栄なことでした。この会の他の方々とも連絡が取れました。この度のニュースレターのためにグループの方々から寄稿を戴き、こころから感謝申し上げます。

クリシュナムルテイの会の他にも、研究所からの情報を広めるための小冊子の作成をして下さる印刷会社の方々、また新潟素行会の講師でノンフィクション作家の神渡良平先生とこの会の関係者との出会いも有難い出会いとなりました。このようにして私はますます日本の社会と生活のためにお役に立ちたい、このことのために残りの人生を使いたいと考えております。

以上、私は私たちがどう東日本大震災の最大の結果と向きあうことができるか、そのなかでどう成長できるかを考えてみました。そしてこの大震災がすべての人々に、それゆえにまた弊研究所とそこに集まる人々にどのような希望を与えてくれるか、どのように私たちが互い自らを開くことができるかを考えてみました。誰にせよ、いまこそ希望を保ち、希望をつなぐことができることを考えてみました。

ニュースレターの特集が読者の皆様それぞれの心の内奥にある希望を高くし、それをつなぐことができますなら、望外の幸せです。
皆さまの平安をこころから祈念いたします。

  • このページの先頭へ

2011・3・11 東日本大震災:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

真実に近いことを知れば知るほど甚大な出来事であったことがわかってくると思います。ご参考までに掲載いたします。(編集係より)

*上記地図中「以上」記載の個所は測定機器壊滅の為、後日に検証。38mを超えるところもあった。

*上記、津波によるエネルギー伝播の試算ー太平洋津波警報センター(NOAA)調べ

*上記、津波の太平洋沿岸各地への到達時間の試算

日本で公表されない気象庁の放射性物質拡散予測

ドイツ気象局による福島第一原発から出た放射性物質の拡散分布予測(日本時間7月15日午後00:00時を想定)。原発からの放出量は不明とした上で、色が濃いほど、濃度が濃い傾向にあるとしている(ドイツ気象局のホームページより)

* ノルウェー気象庁、台湾気象庁もシミュレーションしていますが現在繋がりにくくなっています。
* フランスは放射線防護原子力安全発電所IRSN からです。

東京電力福島第一原子力発電所の事故で、気象庁が同原発から出た放射性物質の拡散予測を連日行っているにもかかわらず、政府が公開していないことが4日、明らかになった。 ドイツやノルウェーなど欧州の一部の国の気象機関は日本の気象庁などの観測データに基づいて独自に予測し、放射性物質が拡散する様子を連日、天気予報サイトで公開している。日本政府が公開しないことについて内外の専門家からは批判が上がっており、政府の原発事故に関する情報開示の在り方が改めて問われている。 気象庁の予測は、国際原子力機関(IAEA)の要請に基づくもの。国境を越える放射性物質汚染が心配されるときに、各国の気象機関が協力して拡散予測を行う。

  • このページの先頭へ

使命と責任 ―東日本大震災におもう―

芝田 豊彦

東日本大震災の惨状を前にして、私たちは言葉の無力さを感じる。「物を云うことの甲斐なさに わたしは黙して立つばかり」と東北の詩人、宮沢賢治が歌う通りである。しかし他方で、阪神大震災において自宅全壊を体験した者として、なんらかのメッセージを発信する義務のようなものも感じるのである。

阪神大震災が一段落して私たちを強く支配したのは、なぜ私たちではなく、あの人たちが犠牲になったのか、という思いであった。災害の犠牲になるか否かは、ほとんど偶然に左右された。それにもかかわらず、いやそうであるが故に、生き残った人々に、死者に対する負い目の意識が立ち現れるのを如何ともし難かった。東北地方の人たちに伝えたいのは、生き残った者の「使命」は死者の分も生き抜くことにある、ということである。その際に、生者に対して死者の護りがあることを心に刻んでもらいたい。フランクル流に言えば、死者のたましいは不可視のエネルギーとなって宇宙空間に振動し、生者たちを、また東北の復興を見守ってくれているのである。

今回の震災が阪神大震災と異なる点に、地震の規模以外に原発事故がある。これは明らかに人災であった。政府や東電の関係者から「想定外」という言葉がよく聞かれた。この言葉は、想定できなかったみずからの非の責任を取るのではなく、自分たちには責任がないことを暗に示し、いわば責任回避の切り札として多用されたのであった。無宗教的な日本の風土では、責任意識も育たないのであろうか。それに対してフランクルは、人間存在を本質において「責任」存在と捉えている。使命や責任が強調される以外に、フランクルのロゴセラピーでは、どんな状況にあっても、苦しみにおいても「意味」があることが主張される。このようなロゴセラピーが、東北の復興に際して、目立たないが無視し得ない貢献をはたすことを、私自身は堅く信ずるのである。

  • このページの先頭へ

東日本大震災に寄せて

笹原 愛子

もう3カ月余りが過ぎてもまだ余震が続きいつになったら納まるのでしょうか。
それに福島原発の事故という大きな土産がついて大変な事態に、政府、東電もそれなりに頑張っておられるようですがどうしたものか?
ところで私の千葉習志野も液状化現象がすごく、風呂屋の煙突は折れ、直ぐ下の家がまる焼けになるなど、今でも毎日工事が絶えません。

私が東松島のボランテアに行かせて頂いたのは仙台に友人が居た御陰で伺う事が出来、駅から車移動で、テレビで見るのとは大違いで それは大惨事が目の前に広がり私たち4人は言葉を失いました。 関西もほぼ復活されましたがこちらは、大きな地震津波と原発と、これからどう生きて行くのか。

松島は島の御陰で被害も大した事無く、間もなく観光船も動き、少しは経済も潤って来たようです。
3か所の避難所に伺い、「書」、「太極拳」、「絵手紙」、「話し相手」をして、子供達には、少しは楽しんでもらえたようで、受け入れのお世話をしてくれた方々に深く感謝いたしております。

ボランテアというのは本当に難しい事で大変なことを知りました。
その後も衣類、家電製品、梅雨に入り長靴等、必要な方に必要な物を届けたほうが良いことに気付き、これからは、その様にしていきたいと思いました。

この大惨事の中で生きていたということがどういうことなのか、それぞれの人が感じ、あるがままを受け入れ、これから何を一番にすべきかトリアージを決め 前を向いて行くことが大事なことではないでしょうか。
私も日々の拘りを少しずつ放し生きている積りです。
何かマイナスなことが起きた時こそ 其の人の人生が変われる時です。

大丈夫!必ず復興出来ますよ。祈ります。

  • このページの先頭へ

この震災で考えさせられたこと

中村 完治

昨年9月、私は東京での定年後3年間の単身赴任生活を終え自宅のある仙台へ戻ってきました。元々横浜出身でしたが、平成元年に仙台に赴任し、自然の美しさや、妻が温泉が好きになり、平成16年に仙台に家を購入しました。東京での通勤時には人身事故がしばしば発生し、大変な思いをしての通勤でした。その度に都会での混乱の恐ろしさを経験し、もし首都大地震が起きたら体力のない者にとって、致命傷になるのではないかと不安になり、退職を決心したところ、仙台での関係会社に勤務を命じられ、現在に至っております。

事務所は県庁の近くにあり、普段はそこで仕事しているのですが、大震災のその日はたまたま、若林区卸町近くにある得意先を訪問し、商談中にビル5階で猛烈な地震に遭いました。激しい揺れに事務所の内部は散乱し、ドアも外れるなどの被害に遭いましたが、なんとか助かりました。そのビルからは、今回被害が大きかった荒浜が見渡せました。

翌日自宅で、停電のため乾電池ラジオに耳を傾けておりますと、あらは間の海岸には遺体が200から300横たわっているとの報道が流れ、心が塞がれました。翌日になっても又同じ報道がされており、何故早く収容してやれないんだと思いましたが、テレビも見れない私には、震災の全容がつかめませんでした。同時にその時、昨年まで東京にいた我が身が、震災当日に限ってその近くまで運命の流れで連れて来られ、荒浜の惨状のイメージを強く脳裏に焼き付かされたのには何か意味があるのだろうか、そして津波に流された彼らと私との差は一体何だったのか、との疑問が常に私の頭から離れませんでした。

その後、食料や燃料を買うために雪がちらつく中を、何時間も行列して過ごす日々が続きました。そうした両列も収まりかけた震災後10日ほど経った日、石巻の避難所ではまだ1日に、おにぎりが一個か2個だけとの報道に接し、「このままでは生かされている者までもが危ないぞ」との危機感がつのり、自分でも動かなければとの思いを強くさせられました。

翌日会社に行くと、東京本社の社長から会社としても何か支援できるものはないかとの問い合わせが入りました。この絶妙なタイミングは何だろうと思いながらも、直ぐに宮城県と連絡を取り、避難所で必要としていた女性用の下着を中心に仙台市内での購入に走りましたが、その時はまだスーパーも食品優先でしたので、衣料品などは思うように揃えることができませんでした。そこで、本社で購入して頂きそこから営業車にて1500枚ほどをもって来てもらうことに致しました。それはまだ、東北自動車道が開通していない時でした。

その後も、県外の友人、知人に連絡を取り、避難所への必要物資をわずかながら調達し、東京からの人的支援の際には私も休暇を取り、一緒に避難所を廻りました。避難所の一部では生活環境が一時期劣悪だとの報道がありました。断水の上、簡易トイレはあるものの、汚物を汲み取るバキューム車が不足しているため使用できず、いつ病気が蔓延しても不思議ではない状況でした。

人的支援で私たちが廻ったときには、4月の下旬でそうした危機は過ぎておりましたが、避難所内は周囲が瓦礫のため埃っぽく、家族単位での仕切りもなく一向に環境は改善されておりませんでした。この人的支援も私が依頼したものではなく、たまたま東京の私の仲間が4人(6、70代の女性)で避難所を訪問し、書道、絵手紙、太極拳を織り交ぜての元気付けをしたいとの提案を、私が繋いだだけなのですが、今思い返せば、全てが絶妙に収まり、却って薄気味悪ささえ感じました。そしてこの企画を実施して嬉しかったことは、親子がこれにうまく溶け込め、避難所の所長さん達からも家族の笑顔を久しぶりに見ることが出来、それが何よりの救いだったと感謝されたことでした。

その一方で、避難所で生活している彼らのほとんどは、家や財産の大半を失い、その上にこうした悪条件での生活を強いられております。世界各地から一刻も早くとの願いを込めた義援金も政府の「公平の法則」により、迅速さが活かされず、震災50日近い時期でも全く配られていない状況でした。義援金総額が数千億円になったと聞かされても、財産を失った被災者にとっては、今の数十万円が喉から手が出るほど早く欲しかったことでしょう。それを早く手にすることにより自立の糸口を見つけることが出来ますが、遅くなればその機会を逸し、行政に将来も頼らざるを得なくなってしまいます。

それにしても、これまで私たちは、あまりにも政治家を頼りにし過ぎてまいりました。政治は政治家の行うものとして、自分達の行動と完全に切り離してまいりました。それが、こうした動きの鈍い体質を作ってしまう結果となってしまいました。これからは、私たち一人一人が地域のコミュニテイを作り上げたうえで、多方面から人的交流を広げ、その結びつきを深めて行くことが、結局私たちの身の安全を守り、生きがいにも繋がるため、必要となってまいります。今回は、世界各国、国内各地からの人たちが日々被災地の救援・復旧のために、寝食を惜しまず活動をして戴きました。まだ、その活動は続いておりますが、その真心には本当に頭が下がり、涙が出てまいりました。本当に有難うございました。

それにしても今回の震災は、あまりにも大きな犠牲の上に、こうした人の繋がりの大切さを、改めて教えてくれる結果となってしましました。

  • このページの先頭へ

心の相談室に携わって

川上 直哉

私は、「心の相談室」という団体で、相談員をしています。このたびの大震災を受けて、地元の様々な宗教者の有志が、宗教者として被災者のためにしなければならないことがある・できることがあるのだと、そう思って、震災後すぐに活動を模索し始めた団体です。

本当にありがたいことに、医療者、カウンセラー、ソーシャルワーカー、大学関係者、そして仙台市長をはじめとする行政の皆様の深い理解を得ることができまして、4月から、ほぼ今の形の活動が定まり、現在に至っています。

新聞等に紹介され、関東・関西の方から、多くの相談が来ます。皆様、遠隔地にあって何もできないもどかしさを覚え、その受け皿としての役割を得ていることを、有り難いと思っています。

一つの事例をご紹介します。東京都在住の方が、宮城県内にお住まいの御親戚の苦しみを相談くださいました。それは行政と法律の問題でした。調査したところ、政治や法律では解決しない問題であると分かりました。問題をご一緒に見つめる内に、こうした問題には宗教の知恵も役立つかもしれないという話に、行き着きました。私から、菩提寺に相談することを勧めますと、ではそうしましょうと、そうおっしゃって、電話は終わりました。

宗教者の強みは、論理や確率計算によらずに「安心・平安」を宣言できる点にあります。その点を生かして、相談者を深く受容し励まさなければならないと思っています。

一方、宗教者の弱みは、自らの宗教教団の勢力拡大を、無意識にせよ、望む点にあります。そこで相談業務においては、@自らの宗教派については、自ら明かさないこと。A相談を受けたときには、決して自ら解決しないこと。宗教相談であっても、関連団体へ相談を回すようにしている。つまり「勧誘を行わない伴走者となること」を目指して、相談業務を行っています。

宗教者が、自らの宗教を、震災で問いなおす、そのような機会を与えられていることを喜んでいます。

  • このページの先頭へ

皆さん、私は宮城にいます

F. S. I.

東日本大震災から1月半を過ぎた頃、我が家と仙台市街を結ぶ道路が復旧した。これで、徒歩通勤生活とお別れだ! 開放感を感じて、そして、突然ボランティアをしようと思った。初対面の人と話すのは苦手だし、不器用な私では活動の足をひっぱりそうだと、止める理由はいくつも浮かんだが、やろうとした最初の動機「道路を復旧してもらえた感謝を行動に現そう」を胸に、ゴールデンウィークのある日を皮切りに、名取市で5回の災害ボランティア活動を経験してきた。

私にとって印象的だったのが、6月18日に活動を終え、ボランティアセンターに戻ったときだった。近くの文化会館には喪服姿の老若男女が集まっている。今日は合同慰霊祭の日なんだ、とはっとする。活動に使った資材を車から下ろしていたら、サイレンが鳴り響いた。「あ、14時46分」。誰かがつぶやく声が聞こえ、そして皆で黙祷をした。サイレンは、重く悲しげな音だった。3月11日も、この地の方々はこの音を聴いたのだろうか。亡くなった方々の元にもこの音が聴こえているだろうか。私も同じ音を聴かせてもらいましたよ。ずっと言葉にはならなかったが、3月11日から10日間岩手県に滞在し水もガスも潤沢に使える生活をしていた私は、宮城の方々と困難を共有できなくて、とても申し訳なく、身の置き所がなく苦しかった。私は一体日本のどこの人間として震災後を生きればいいのか、との問いが、ボランティアをせずにはいられない気持ちにさせていたことにやっと気がついた日だった。

今は、ボランティア活動は一時休止して、震災後遠ざかっていた趣味を再開した。宮城の人になれた分、軽くなったこの気持ちを今は楽しもうと思う。

  • このページの先頭へ

地震という生と死の物語を経験して―研修生として感じること―

加藤 寛基

私は約4年前からロゴセラピーの教育研修生として、安井先生のもとで学ばせていただいている。
私がロゴセラピーを学べることになったのは、運命とも呼べる偶然からだった。
私は20歳の時に母を亡くした。それをきっかけに"人生―生きる―とは何なのだろう?"という問いが私の中で芽生え、日々そのことに想いを巡らせていた。そんな時にある一冊の本に出会うのだが、その中に幾度となくロゴセラピーが紹介されており、私はその存在を知ることになる。
衝撃だった。ロゴセラピーの"意味による癒し"という概念は、母の死を乗り越えようと私が自力でたどり着いた、まさにその境地を表現するのにぴったりの言葉だったからだ。私の心の中に"ロゴセラピー"という言葉と意味による癒しという概念が力強く刻み込まれた瞬間であった。

それから1年ほどが経ち、私は仕事上、あるお客様と会話をしていた。そしてそのお客様の口から『ロゴセラピー』という言葉が発せられ、私は驚嘆した。そのお客様との出会いに何か運命的なものを感じずにはいられなかった。そう。それが安井先生との出会いであった。
そんな運命の出会いから私の真の学びの時間は始まった。まだまだ無知ではあるにしろ、その当時に比べれば"人"そして"人生―生きる―"ということについて随分と理解は深まったと思う。これからより深く学び、自らの力を伸ばしていきたいと改めて決意していた。

そんな中、ついにあの日を迎えることになる。1000年に一度と言われる3月11日の東日本大地震である。
この震災を通して、私は改めて"生と死"について考えざるをえなかった。"生と死"それはいみじくもロゴセラピーの主要なテーマの一つとして取り上げられており、ある意味で、もはや聞きなれた言葉であった。
私自身、友人や親族を亡くしたわけではないのだが、多くの人々の死を見聞きし、何度も涙を流した。そして涙を流しながら、何度も"生と死"について考えを巡らせた。
おそらくこの未曾有の大災害は何世代にも渡り"死の物語"として語り継がれていくことになるだろう。しかしそれと同時に、生き残った私たちがいるということからこの災害は"生の物語"としても受け継がれていくはずだ。

この多くの人々の死を通して、私たちは生というものを、かつてないまでに深く考えさせられる機会を与えられた。
そして今、生き残った私たちは自らの人生を通して、そして実際に生きていくということを通して、生きる意味というものを後世に伝えていかなくてはならないのだと思う。その行為をもってのみ、亡くなった人々の死というものを、より意味に満ちたものにできるのではないだろうか?それが生き残った私たちの役割なのだと思う。
死んだ人たちの分まで生きていくということではない。きっとそんなことは不可能だろう。
ただ、自分自身の人生を精いっぱいに生きるということしか私たちにはできないのだと思うし、それが正しいのだと思う。そしてそのことが、亡くなってしまった人々の死に、より深い意味を与えられるのだと確信している。
そして悲しみに暮れる人々にとっても、その生き方だけが"意味による癒し"へと通ずる道なのだと信じている。

私は思う。この"生と死の壮大な物語"の経験者の一人として、そこから何らかの意味を見出し、私の未来、そして後世へとつながる生き方をしていきたい。
一人の人間として。そして未来のロゴセラピストとして。

今回お亡くなりになられた多くの方々に哀悼の意を表します。

  • このページの先頭へ

これから

千葉 幸恵

謹んで東日本大震災で被災をされた皆様にお見舞いを申し上げます。
また、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、大切なひとを亡くされた方々に、心からお悔やみを申し上げます。

絶対生きて家に帰る!このような気持ちが湧きあがるほどの凄まじい揺れを、仙台市にある勤務先のビルの6階で経験しました。これまでの地震とは違う尋常でないものを感じながら、あの時間をこらえました。その夜、ラジオから流れる信じ難い、耳を塞ぎたくなるような報道を聞きながら、あの地震は「始まり」であったと知りました。

大地震と、津波による自分が育った地域の破壊、そして原発事故。同時に起きたこれらの、自分ではどうすることもできない状況に突然この身が置かれ、私は途方にくれました。

失ったものの大きさと、抱えたものの重さ。さらに、原発事故の真実を知らされていない――この扱いから感じる、生きているものたちの尊厳が失われているその在りよう。こうしたことを、どう受け止めどう向き合えばいいのかわからず、本や研究所の資料にその思考のきっかけを探しました。

心にはどんな言葉でも表現し切れない気持ちがあり、言葉として発した瞬間に心が上滑りしてしまうような、寡黙になるしかない数週間を過ごしました。しかし、日々の生活において、できるだけ普段に近い生活をするよう工夫をし、子供達の安心と安全と成長に心を配るように努められたことは、私自身を自律する助けとなりました。

震災から一週間ほどたったある日、震災後の生活で初めてほっとした出来事がありました。毎年、春の訪れとして楽しみにしている、道端に咲く小さな白い花が、偶然、私の目にとまりました。その脇には、別の花が種子を結んでいました。

この状況でも、何があっても、自然は前に進んでいたんだなぁ…、   驚きと、久しぶりに抱いたほのぼのとした気持ちを――まさに、乾いた砂に水がしみ込むように、その嬉しさを感じながら――私は、静かに咲くその花を暫く見つめていました。

あれから4カ月。少しずつ私なりの落ち着きを取り戻してきました。
日々の暮らしの中で、生きるのは独りという厳しさに向き合う機会が与えられる一方で、小さな喜びを見つける幸せがあります。社会に眼を転じますと、日々刻々と変化があり、理不尽な出来事に湧いてくる気持ちの納めるところがわからなくなる時もあります。

これまでもそうでしたが、特に震災後のロゴセラピーの勉強では、私のこうしたこだわりを、私自身がどう捉え直してみればいいのかに気が付く瞬間があります。それは私の「思い込み方」に目が向く瞬間でもあるのですが、まるで、表から見ていたものを裏から見るような、さっと視界が広がるような感覚を覚えます。こうした経験を重ねることが、私に、小さいけれども静かで確かな安心をもたらしてくれているように思いますし、厳しい状況下でも、こうして留まらずに歩いて行こうと思えるロゴセラピーの深遠さを思います。

震災後の混沌として見える日常に、震災前には考えもしなかった程の緊張感を持って向き合い、整理し捉え直すことは、これからの私の新たな可能性へと繋がり、又、この状況だからわかることやできることがあるようにも思いますので、これまで通り、日々の生活の一つひとつに、ひるまずにじっくりと取り組んでいきたいと思います。

  • このページの先頭へ

大震災を体験して

中山 康子

今回の体験は一人ひとりが危機的な状況に立ち、自分を知る機会になったと今は思います。

震災直後、運営するデイサービスの利用者もスタッフも怪我がなく、木造施設も揺れに持ちこたえました。信号もつかない仙台の暗い街は映画のセットのようで、その中を不気味さを感じながら、徐行運転で私は帰宅しました。 当日の夜、寒さに震え寝る中、ラジオから「仙台市若林区の海岸に100から200の遺体が浮いているとの目視情報が入っています」という放送を聞き、「一体何が起こったのか」と心が冷え、おびえました。不安に包まれながら、とんでもないことが起こったことは充分感じていました。

翌日からラジオで、孤立している人達がいることがわかりました。「看護師だから、何かしなければ!」反射的にそう思ったものの、私の身体は動きませんでした。
被害の大きさに個人の力では対応不能と解り、また、日ごろから100%の力で活動をしていて、今は出そうと思っても更なる力が全く出ない自分に気が付きました。
今の私は、"できること"だけをしようと自分に言い聞かせました。

震災から3日目くらいでしたでしょうか、ラジオから初めて音楽が流れました。でも、私はすぐにスイッチを止めました。聞きたくない!と強く感じたのです。今思うと、震災後1週間は心理的危機状態でした。

仕事は3月末まで休業せざるを得ず、利用者の安否確認や物資の配達だけをしました。そして自分たち家族の生活に力を集中させました。

電話が通じ始めると「困ったら連絡して!」と、全国から知り合いが声を届けてくださいました。どうしようもなくなったら助けてくれる人がいると知ることは大きな支えでした。私はあの時、冷静でしたが、自分の力の限界を知りました。でも、限界がわかったからこそ、より一層、生きる上での支え合いが必要であることを実感しました。

ありふれた日常が壊された体験は、津波被害にあった地域の方々を思うと言葉もありません。戦後生まれの私たちは、今回、初めて日常生活を大きく揺さぶられました。

いつかこの震災体験を振り返ったときに、厳しかったけれど得たものがあると言いたいと思います。ケアの仕事の中で、今回、再確認した"つながり""支え合い"をこれからも大切にしていきたいと感じています。

  • このページの先頭へ

それでも今を生きていく

盛一 美那子

この度、千数百年ぶりの大災害に直面し、自然の脅威というものをまざまざとみせつけられ、またそれによって多くの教訓を得ることともなりました。
生きている間に、これほどの惨状を目のあたりにするなどとは、3・11以前には考えもしなかった事です。

阪神大震災の想像を絶する惨状を目にした時の驚愕も決して忘れてなどいませんでしたし、これまでに起こった新潟や県北の直下型地震によって受けた大きな被害も記憶に新しいものです。大きな震災を教訓として耐震基準も強化され、多くの家庭では揺れに対する備えをしていたハズです。
それでも今回は、その隙を突かれでもしたかのように、これまでをはるかに上まわる惨状とその広がりを見ることになってしまいました。

津波の恐ろしさは幾度となく語られてきていたにも拘らず、これ程大きな被害となってしまったのには過信してしまった部分もあると思いますが、後の検証の中でそれなりの理由があったことも分かってきました。
3・11以前の何度かの津波警報を受けての体験が逆に災いを招いてしまった事は残念でなりませんでした。

被災地では、作業に従事されている多くの方々のご尽力のお蔭で復旧・復興に向けて少しずつではありますが段階を経つつ、生きて行く上で必要最低限のことが整っていくよう改善され始めている地域の様子を窺い知ることが出来、わずかな希望が見えてきています。

大切な人、家・職 全てを奪われてしまった方々、住む家と生活する場がありながらも、無期限で地域から追いやられた方々、また、目に見えない放射能飛散により生活の糧を失ってしまわれた方々、不安を抱えながらの生活を送らざるを得なくなった方々等、揺れから始まった理不尽とも思える苦しみは計り知れません。

それでも、生かされた私たちは今、この時を生きてゆくんです。
夫の兄弟家族8人を失くした義叔父と共に遺体安置所に連日足を運び、遺体の変容を目のあたりにしてきた叔母は、百日経たこれまでを振り返り、言いました。
「人間って強いものだと思った」と。

  • このページの先頭へ

もう1つの原発ともう一人の相馬人

安井 有為子

2011年3月11日から4カ月目を迎えています。亡くなられた方々への鎮魂を祈念申し上げ、被災された方々に衷心よりお見舞い申し上げます。

東日本大震災死傷者数

日本国内

死者

15544人

 

行方不明者

5383人

 

負傷者

5687人(北海道〜高知県)

日本国外

死者

2人

 

行方不明者

5人

(2011年7月10日大幅増加の可能性あり。警察庁発表)

突然足下が盛り上がるかと思った次の瞬間、ゆぅらぁり揺れ始めたそれは大地震だった。そして、大津波…。数日後にはFUKUSHIMA原発爆発事故という人災に加えて、東電と政府による隠蔽工作の重み。あれから数か月を経て、その重みはこの国の全住民にじわじ わと押し寄せ、圧し掛かって来ている。このすべての責任はどこへゆくのだろうか。

自然の為す災いに人は勝てない、災いは忘れたころにやってくるというけれど、人間に与えられた知恵を総結集すれば、そう簡単に言い放つことはできないような思いも湧いてくる。

北海道・東北・関東・四国地方の太平洋側を襲った出来事を、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットを通して吸収してきた。そして、過去に生きた人々が、彼らの遭遇した災難を子孫には負わせまいとして伝えた記録や語り伝えや記念碑は錚々たる数にのぼることを知った。

何故、専門家、学者、知識人は歴史の事実から生まれた古い資料にも目を向け、詳細に探求し、提言し、実践に移せなかったのだろうか。彼らに国民の、人間の命の持つ重みに心砕いて戴いていたならば、起こらなくて済んだ悲劇かもしれないと私は思う。人々は今「あれは人災だった」と言い始めている。

数年前から、同時に三つの新聞を読むようにしているが、三社三様で考えさせられることも多く、時には一仕事になることもある。その中の2011年4月23日朝日日曜版be に、夕焼けに包まれた瀬戸内海の写真があった。その記事を読んで驚いた。そこには、 10億という漁業補償金の受け取りを拒み続けながら、原発建設計画の反対運動を30年間闘い続けている島人が山口県に在ることを報じていた。
彼は瀬戸の花嫁さんを迎えたびわ栽培農家で、お子さんも2人あり、『ロマンで運動しているのではない。地域に可能性を感じるからです。』『原発を受け入れればカネがはいるが、失うものの方が大きい。生活の礎である海と山を守らなくては』『ひざの上にいる子に、放射能におびえる思いは絶対にさせたくない。離島では逃げる場所もない』と 語気を強めて語ったという。

原発に関してこんな実話があるとは、知らなかった。もうひとつの なくてもいいはずの原発建設計画の在り様、電力会社の執拗さにもくじけず闘い続けている島人がいたのだ。
自分の生き方を意味深く貫こうと勇気と強い意志で、びわ栽培を続ける彼の生き方、瀬戸内の環境を、自分の家族を、島々の隣人を深く愛してやまない彼の底力に、がんばれ!!! と我がこぶしを振り上げていた。

3月11日午後大地震の際に切れた我が住まいの電気は数日後には再び灯った。その瞬間からテレビのニュースから流れる、見たことのない凄まじい破壊力の映像に身体の力が抜けていってしまった。食欲もない、やる気の全くなくなった虚脱状態に近いそのとき、「フクシマ」という地名を耳にして なぜか、十数年前の景色が脳裏に蘇っていた。

その日は休日を利用して車で走り続け福島県に入っていた。どこかに駐車場をみつけ、少し歩くことにした。感を頼りに町の中へ入り込んで駐車場を見つけた。すぐ傍は広いグラウンドで若い人たちが元気に野球に興じていた。傍らにゆるい坂道があり、そこをゆっくり登り、途中を右へ折れたと思う。散策しながら奥へ奥へと行き当たったところは大きな茂みだった。

夕暮れ近いとはいえ、薄暗く肌寒い日陰に、大きくはない社(やしろ)があり、白い大きな立て札も目にとまった。こんなところに…、と思いながら読んでみれば、「相馬市 二宮金次郎 御仕法」とあり、長い説明文には相馬市の繁栄のために、偉業を残された二宮尊徳先生を讃える説明書きだった。夕日は傾き、影は長く映り、うす暗くなりかけの武家屋敷なのか神社の敷地なのか、大きな門は閉じられていた。昔風のたたずまいの端の方にオレンジ色の花が満開の1本の木が目に入った、甘い香りを漂わせる金木犀だった。その日は二宮金次郎さんの半生を知った驚きと新鮮さを土産に帰路に着いた。

あれから年月を経た今、二宮金次郎さんの御仕法を思い出すことになった。それは、  福島原発爆発という人災事故以来、しばしばニュースの中に見かけるお二人の凛として動じず、愚痴らず、考え抜かれた言葉できっぱりと主張される様子。そのお一人、佐藤福島県知事は最近も『いいえ、原発の再稼働はありえません』とジャーナリストの問いに一言きっぱり。もう一人の方は、TIME誌に、世界で一番役立つ100人の中に選ばれた桜井南相馬市長『自分が選ばれたことで南相馬市民の様子を世界に知って戴き、世界中の知恵を集めてこの非常時を助けて戴けるきっかけになるなら、それ以上に望むことはありません。』とニコリともせず語られた。この様子をテレビで観ていた私は、ご本人に確かめるわけにはいかないけれど、 お二人には御仕法の精神がそのまま受け継がれているのではなかろうか、と密かに思った。
そして、これがわたしの勝手な想像だとしてもそれでも良い、今こそこの機会に、二宮金次郎さんについて読んでみようと考えた。 数冊を大急ぎに斜め読みをしてみて、ここでもビックリさせられたことがある。

今から220年前 1791年に、小田原から江戸に至るまでの沿岸に大嵐と津波が押し寄せ、金次郎さんのお父さんは大農地を一瞬のうちに失ったのだという。そこからの回復のために、金次郎さんの幼少からの苦学が始まったのだという。それにも負けず、ポジティブ思 考に徹し、チャンスをつかみ、独学を重ね、驕ることなく農民や次世代へ知恵を繋げ尽くされた。

金次郎さんは農民や次世代への優しさや厳しさを短歌(うた)にも詠まれている。不思議に思われるのは、彼の短歌が、旧約聖書の箴言、コヘレトの言葉や知恵の書などの厳しくも、温かく優しい新鮮さとかさなるように思えたこと。
金次郎さんは農民の聖人とも呼ばれたという。飢饉から人々を救い、道徳教育を施し、豊かに生き延びるために今流行のWinWinの実践方法を、書記を務めたお弟子さんによって書き遺されてもいる。また説法には至誠、勤労、分度、推譲という言葉に丁寧な説明を加えて諭(さと)してもおられる。

二宮金次郎さんの御仕法は、東日本大震災からの復興という、歳月を要し、東北や日本の為だけでなく、世界中の経済にも関わる大事業に一筋の灯を示されているようにも思えてきます。

*「代表的日本人」 内村鑑三著 岩波文庫 1999年14刷
 (西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人)
*「二宮尊徳」 児玉幸多責任編集 中央公論新社 1999年4刷
*「二宮金次郎の一生」 三戸岡道夫著 栄光出版社 2011年28刷

画 斎藤颯子 吹田市在住

  • このページの先頭へ

研究所主催 研修プログラムの日程 2011年秋〜2012冬

ロゴセラピスト教育研修
1部 方法論演習プログラム

1/1―① ブロック・ゼミナール 2012年3月3日(土)〜4日(日)
1/1―② ブロック・ゼミナール 2012年6月2日(土)〜3日(日)
1/2―① ブロック・ゼミナール 2012年9月1日(土)〜2日(日)
1/2―② ブロック・ゼミナール 2012年12月/1日(土)〜2日(日)

ロゴセラピスト教育研修
基礎理論プログラム 第1部

第1ゼメスター「人間の本質 ― ロゴセラピーの人間学」
第1ブロック・ゼミナール 2012年3月10日(土)〜11日(日)
第2ブロック・ゼミナール 2012年6月9日(土)〜10日(日)
第3ブロック・セミナール 2012年9月15日(土)〜16日(日)
第4ブロック・ゼミナール 2012年12月15日(土)〜16日(日)

基礎理論プログラム 第4部

第4ゼメスター「苦悩する人間 ― 医者による精神の教導」
第3ブロック・ゼミナール 2011年9月17日(土)〜18日(日)
第4ブロック・ゼミナール 2011年12月10日(土)〜11日(日)

2012年度 新プログラム
若者向け コーチング・サロン

2012年1月より毎月1回、職業随伴的にコーチいたします。

毎月第3週の金曜日19時〜20時
2012年 1月20日
2012年 2月17日
2012年 3月16日
2012年 4月20日
2012年 5月18日
2012年 6月15日
2012年 7月20日
2012年 8月17日
2012年 9月21日
2012年 10月19日
2012年 11月16日
2012年 12月21日

料金 1回¥6,300(税込)1年一括 ¥75,600

大学を出て就職後の8年〜10年をどう使うかはどのようにそれ以後のキャリアを形成するかという問いに決定的な意義を持ちます。仕事上の業績に加えて仕事への態度のとり方も問題になります。仕事への態度のとり方というのは、結局、人生への態度のとり方、何を価値とし、何を目標とするか、何を自分のニーズとするかによって決まってきます。態度はその人の雰囲気、表情、身体の動き、輝きとして現れます。内は外にでます。外にでるものは嘘はつかない。悪い習慣は止め、良い習慣を身につけることはできます。そのようにして自分の経歴を管理することができます。

弊研究所は総合的観点から若い世代のキャリア形成のお手伝いをいたします。

エニアグラムとロゴセラピー
第3ツュークルス

タイプ1 改革したがる人 2011年8月27日(土)
タイプ2 助けたがる人  2011年9月24日(土)
タイプ3 成功を追う人  2011年10月29日(土)
ダイプ4 ロマンチスト  2011年11月19日(土)
タイプ5 観察する人   2011年12月17日(土)
ダイプ6 慎重な人    2012年1月21日(土)
ダイプ7 幸せを求める人 2012年2月25日(土)
ダイプ8 強さを求める人 2012年3月24日(土)
タイプ9 平和を求める人 2012年4月21日(土)
最終回  第3ツュークルスのまとめ 2012年5月19日(土)

このツュークルスにおいてはそれぞれのタイプのネガテイブな側面とどう関わるかを考えてみます。その際、とくに訓練に伴うリバウンド現象に注を向けます。原則として全セミナーを通して参加することといたしますが、それがかなわない人は希望のタイプを選んで参加することも可能です。

研究所では、常時療法面接を受け付けております。
上記の各研修及び面接療法に関してのお問い合わせは、お問い合わせフォームより承ります。

  • お問い合わせフォームはこちら
  • このページの先頭へ

女性のための生涯塾からご報告

人生は意味に方向づけられている という。生きていることには、その人の生涯を通して、いつも新鮮に考えることを迫られています。ひとつひとつを細かく見、考え、判断をすることに慣れる、そして、人と話し合い、時には討論もし、参加者一人一人がお互いの思いを理解しながら、同時に自分自身と向き合うことを覚えるひとときです。少しずつ心も身も強くなれます。参加ご希望の方、気軽においで下さい。

【毎月1回例会 第2土曜日】
14:00〜14:55 腹式呼吸で心と身体の調和を図る時間
15:00〜17:00 対話・討論・質疑等の時間
参加会費 資料共 12カ月分一括  ¥36,000

生涯塾は2011年7月で2年目を迎えることになります。学ぶことにとても熱心な皆さんのためにお役にたてるよう資料作りはその時々の状況を踏まえて作るよう心掛けています。

この度の6月例会は特別行事になりました。

3月の大震災以来、大小の余震が続く中、ほとんどの東北人にとって、数か月間は空白状態になった感覚を経験しており、緊張のほぐれる時は先ずないという事に私も気付きました。そこで、生涯塾メンバーのためにも、気分転換を図ろうと、一日遠足を試みました。

10:00〜仙台市博物館へポンペイ展観覧⇒車の中で軽食⇒みちのく湖畔公園ポピー畑へ⇒蔵王お釜へ⇒お好み焼きで力をつけて⇒7:00帰路へ。

広い青空の下、そよかぜと満開のポピー、新緑、お釜からの景色も満喫、この日は生涯塾開設以来はじめての外出は大好評で大成功でした。

唯、1日中の外出は福島原発による放射能汚染物質による汚染が気になります。6月4日の風向きは西風のようでしたが、それでも、既に汚染されている所にさしかかったかもしれません。身体外部はシャワーを浴びて汚染物を流し、身体内部はマクロビオティック食(玄米ごはんと本塩のおにぎり&純粋味噌と椎茸の戻し汁にかぼちゃを入れた味噌汁、化学調味料やカツオだしは除外)で洗浄して下さるようお勧めします。

  • このページの先頭へ

東日本大震災から元気を取り戻そう会

2011年7月31日(日)、8月28日(日)9月25日(日)… 続く
大震災の影響はますます増大し、私たちの生活を物質および精神面において脅かしております。それにどう対応するかを共に考えたいと願っております。
参加費:¥1,000 避難所また仮設住宅にお住いの方々は参加費免除です。
皆さまの御来訪をお待ちしております。
10月以降の日程については、10月に入ってから研究所にお問い合わせください。

  • このページの先頭へ

編集後記

☆読者の皆様にはお忙しい中、お読みいただきありがとうございました。

☆寄稿下さった皆様には貴重な時間を割いて戴き、御意見や哲学を提示戴き感謝申し上げます。
普段はとてもお目にかかれない方々もおられます。先生方の御健勝を祈念申し上げます。ロゴセラピーを介しての出会いの芽が膨らみますように心より願います。

☆研修生の中には震災で御家族を亡くされ、初盆を迎える方もおられます。
心よりお悔やみ申し上げます。

☆次号発行は2012年1月の予定です。「2012年」をテーマにしたく考えておりますが、皆様の寄稿をお待ちしております。締め切りは2011年12月10日(土)。

発行者

安井 猛
日本ロゴセラピー&実存分析研究所・仙台 研究所長
ドイツ国ロゴセラピー協会公認ロゴセラピスト
ロゴセラピー&実存分析訓練と研究のための国際学会理事
(スイス・バードラガツ)
ピーター・ドラッカー学会会員
尚絅学院大学総合人間科学部人間心理学科教授

編集

安井有為子

研究所住所

宮城県仙台市青葉区本町1−13−32−オーロラビル605

ホームページアドレス

http://www.logotherapie-japan.net/

連絡先

FAXのみ 022-707-4582
研究所メールアドレス jilex-tws.okiu@agate.plala.or.jp

定価

冊子¥500‐ + 送料¥140

振込先

七十七銀行 西多賀(にしたが)支店 普通口座 5510864
ニホンロゴセラピーアンドジツゾンブンセキケンキュウショ・センダイ
ヤスイタケシ

  • このページの先頭へ