ミニ講義Ⅰ 子どもたちとともに苦境を乗り越える

2012年3月24日(土)13:00〜15:00

柴田先生から、皆さんの保育園はキリスト教精神によって運営されていることをお聞きいたしましたので、興味深くここにやってまいりました。私の勤務する大学もキリスト教主義学校でして、付属幼稚園を持っております。一昨日も教授会で幼稚園児の幼稚園での生活がどのよう営まれているかについての報告を受けました。昨年の秋、子どもたちの育てた野菜が放射能に汚染されていて、それを食べて収穫を祝えなかったとのことでした。可哀そうなことだと思いました。放射能汚染はフクシマ第一原発事故のあとすぐに確認されたのですが、それは幾分か弱まるのには想像を絶する時間がかかるといわれております。それ故、東日本に住む人間は自分たちの身体を否応なしに破壊的な放射能の力に晒し続けることになります。資源の豊富な東北の太平洋沿岸の魚も農産物も広範囲にわたって破壊されつつあることは最近改善された放射能測定基準の導入によって明らかになりつつあります。

私のロゴセラピー研究所では昨年の6月以来「東日本大震災から元気を取り戻そう会」を開設し、月一回、日曜日午後2時から5時まで行われる定例会において元気を取り戻すための努力をしております。私たちは物理学者の集団ではありませんので科学的に何か特別なことができるわけではありませんので、信頼がおけると思われる専門家からの情報を得ながら、どのようなことに気をつければよいのかを考え続けてまいりました。私たちに身近な、汚染された環境、さらには東北を超えて様々な形で破滅の危機に瀕する世界とどう向き合うかを探求しております。この探求の作業は専門家の力を借りないでも、人間である以上、誰にでもできることであることは次第に明らかになりつつあります。限られた町や村に住んでいても想像と思考力を働かせさえすればできるはずのことです。このようなことですからフクシマ第一原発事故以来、私たちが環境および世界にどう正確に対処できるかを言葉によって表現することにしております。その結果を研究所のHPに公表して社会貢献を果たそうとしております。会のメンバーはそれぞれの生活と問題意識から、世の中に見られる様々な態度の取り方、そしてまた自分たち自身の態度の取り方を報告しております。

そこで私はこのミニ講義において私のいま考えていることを保育士の皆さんにお伝えしたいと思います。これを、園児たちの抱えているかもしれない問題と関連づけながら行いたいと思います。

皆さんは毎日、ほぼ6歳までの子どもたちを観察しておられることを聞いておりますが、一体、皆さんは子どもたちの何を、どう観察されるのでしょうか?園長先生からいただいた情報によりますとゼロ歳から5,6歳の子ども達が110名保育園で生活しており、これらの子どもたちを24名ほどの保育士たちと看護師で見守っておられます。見守る側の年齢も20歳から57歳までと広範囲です。その見守る視点も様々かもしれないと思います。子どもたちが保育士さんたちに発信する事柄も、それを見守る保育士さんたちの視点もともに多様です。園児も先生方も瞬間ごとに変化する多様な関係の中にいるのです。ですから、保育士さんたちに子どもたちの生活の何処をどう観察されるのですか?と聞かれても困ってしまうかもしれないと思います。

まず、観察する場合の焦点を何処に当てるかを定めますと、考えやすくなると思います。いま私たちはゼロ歳からほぼ6歳まで、すなわち保育園の先生や親たちが子どもたちを保護する時の子どもたちの年齢を視野に入れながら、子どもたちはこの時期にどんな能力を発達させるのかと問うてみましょう。たぶん、皆さんはすでにそのような問いを持ちながら働いておられるかもしれません。私はせっかく皆さんとお話しをしているのですから、私の専門とするロゴセラピーの観点からこの問いを考えたいと思います。この時期に子どもたちが、意味に焦点を当てた心理療法としてのロゴセラピーの観点から見たら、どのような能力を発達させるかについてお話ししようと思います。

3歳ぐらいまでの子どもたちが持ち合わせ、そして発達させる能力には次のようなものがあるといわれております。

  • 基本的に信頼する
  • 無制約的に愛する
  • 結びつく
  • 交わりを喜ぶ
  • 他の人間の反応を喜ぶ
  • 世界を感覚的に把握する

子どもたちはこれらの能力を持ち、それを発達させるというのですね。勿論、それぞれの子供はそれぞれの程度においてこれらの能力を発達させるわけです。いま、6点に渡って子どもたちの能力を言葉にしてみましたが、そうしますと、なにか格別のような印象を与えられます。一言でいいますと、子どもってみな良い子たちなのだぁと感動します。環境の善し悪しがあっても、子どもたちはもともと良い能力、よい素質を体現しているのだと思います。

皆さんの保育園には4歳児と5歳児もいるとのことですので、3歳ごろから5、6歳までの子ども達の発達させる能力にも触れておきましょう。

  • 何かを一心に欲する
  • 知ることへの飢え、好奇心
  • 他人の為に何かをする、贈り物をすることの喜び
  • 極端な感情を楽しむ、喜ぶ
  • 世界を、感情を動員して体験する
  • 動く事の出来る喜び
  • 反抗(そこから後に反抗力が発達する)
  • 遊びに没頭する、自分を忘れる(後に、超越する能力)
  • 行為に目的なしの喜びを覚える
  • 環境を知覚する、自然、空間、匂い、色を喜ぶ
  • よい子であろうとする
  • 耳を傾けることができる(童話)
  • 集めることを楽しむ(所有への喜び)
  • 魔術的な思考(世界は魂を吹き込まれている)
  • 役割を果たすことを楽しむ(距離化への基盤)
  • 悲嘆を共にする

多分、園児のご両親も、保育士さんたちもこのような子どもたちの能力の発達に驚き、また喜んでおられると思います。すべてこれらの能力に気をつけながら教育しておられる。或いは、列挙された能力の存在をあまり意識しないで子どもを育てていることもあるかと思います。何れにいたしましても、非常に多くのポジティブ能力が子どもたちの中にはあります。それらの能力の発達が、何らかの事情から阻害されると、子どもたちは彼らなりの仕方で苦しみます。子どもたちの生活空間が広範囲に放射能によって汚染されており、遊びの空間が制限されています。子どもの能力の発達を阻む可能性のあるものが、そうでなくても至るところにあるのですが、福島第1原発の事故以後はそれに加えて遊びの空間の極端な制限を付け加えました。しかも日常化していつ終わるかもわからない制限です。

保育士さん達の仕事空間に関しましても、物理的、身体的そして心理的な汚染を免れてはおりません。これまでのようには仕事ができなくなった。しかも、保育士さんたちの個人的な環境も変わった。家族や友だちや親戚が被災されて修復できない被害を被ったかもしれない。それが心配や不安や苛立ちや意気消沈を惹き起し、保育士さんの仕事の仕方に本人も気づかない、微妙な影響を及ぼしているかもしれません。子どもたちも、保育士さんたちもこれまで経験したことのない異常な状況にいますので、それに対応する仕方も異常になることは極めて正常なことです。

保育の仕方が生き詰まる、保育士さんたちが相互にどう関わっていいか分からなくなる。それゆえに摩擦が起こる、苛立つ、不安に思う、仕事に集中できない。子どもや保育に関する見方、仕事の目的そして人生観、それまで自明だったことがぐらつく。私は皆さんに、これは当り前のことなのだと考えていただきたいのです。すでにいいましたように異常な環境の中では普段だったら制御できることを制御できなくなることは極めて正常なことなのです。ですから私は皆さんに先ずハッキリさせたいと思います。いま挙げた動揺、ぐらつきをなにかまずいこと、間違ったこととしてはいけない。逆に、ぐらつくことは良いことなのだ、正常なのだと受け取る。この正常なことをありのままに見、ありのままに語る。私たちはすべてが変わった世界の中に生きており、その中で働いているのです。前代未聞、26年前のチェルノブイリに匹敵する大事故の煽りを受けたのです。これを改めて挑戦として受け止める。これをチャンスとして捉える。外で遊んでいた子どもたちが遊べなくなる。自分たちが植え、水をやって育て、収穫した野菜は食べられない。これは本当の苦しみ、苦悩です。子どもたちにとっても私たちにとっても。この事実に直面する結果としての苦悩を避けようとするのではなく、全く逆にその中に入っていく。入って行くことによって解決する。すでに皆さんにお話しした私たちの研究所で行われている「東日本大震災から元気を取り戻そう会」のメンバーの一人は、このような事態を「打たれ強くなる」という言葉で言い表しました。打たれても、打たれてもへこたれない。それどころか打たれる中でどんどん強くなる。そして問題を解決する。

どうしたらそれほど強くなれるか?子どもから学ぶ、私はこれが答えだろうと思います。先ほど私たちは0歳から6歳までの子どもたちの能力の発達を見ました。私は5〜6歳にもなるとすでに能力は全人的に発達を遂げているといいました。この子どもたちこそ保育士さんたちを苦悩から救い出してくれる資源です。彼らを愛情を以って、冷静に観察しながら、すでに言及した能力を発達させる手助けをする。そのためにできることをする。そうする中で自分たちが育てる子どもたちの発達から私たち大人も生き方を学びさえすればよいのです。先に子どもたちの様々な能力を列挙しましたが、私はロゴセラピーという心理療法の観点から取り分け子どもたちが身につけるという2つの能力に注目したいと思います。子どもたちは

(1)役割を果たすことを楽しむ。(距離化への基盤) 「役割を果たす」とは、他者の為にある役割を果たす。子どもの注意は他者に向きます。注意は他者のもとにあるので、自分から遠ざかります。苦悩と痛みをひっくるめて自分から距離をとることができます。これをロゴセラピーでは「自己距離化」といいます。自分から距離を取り、それを保つ。

さらに、私は、子どもたちは

(2)遊びに没頭する、自分を忘れる(後に、超越する能力) といいました。遊びの中に自分を忘れること、遊びの中で自分自身を超えることによって自分を実現します。ロゴセラピーにおいては「自己距離化」と並んで「自己超越」を語ります。私たちはしばしば「自己実現」について語ります。自分の思っていること、理想とすることを実現してハッピーになりたいと考えます。これは極めて普通のことです。望みを叶えたい。そしてハッピーになりたい。まったく問題はありません。ただ考えなくてはならないのは、自己実現するためには1つの回り道をしなければならないことです。自分を実現することは自分を越えるという回り道を通ってだけ叶えられるということです。自己実現は自己超越の結果に過ぎないのであり、それ自身はなにか決定的なことではありません。ただひたすら自己を超越することを目指し、自己を超越することに専念する。そしてそのことによって自己実現をする、ハッピーになるということです。

保育士さんたちの役割は何かといいますと、子どもたちがこの自己距離化と自己超越を果たすための手伝いをすることに他なりません。そのためにどうしたらよいかを考える。しかも、これをフクシマ以後の現在の状況との関連から言いますと、極度に限られた自然環境、極度に限られた屋内空間の中で行うということです。そのために工夫に工夫を重ねる。保育士仲間が互いに志を同じくして協力し合いながら子どものために工夫を重ねる。そして少しずつ、緩やかにではありますが先へすすむ。あるいは場合によれば、どんどん先へ進む。進むことに集中する。子どもたちに向き合い、子どもたちに合せるという役割をますます強力に演じながら、皆さん自身が自分の問題から距離をとることを学ぶ。ロゴセラピーでいう自己距離化を行い、自己超越を果たし、それが自己実現として自分に返ってくる。子どもを助けることによって自分が助けられます。

先だって、仙台の河北新聞に宮城県の教職員の「心身不調」についての記事が出ておりました。それによりますと、東日本大震災後、宮城県内の教職員の2割が心身の不調を訴えているとしております。特に被害が甚大だった沿岸部ではほぼ3割が強いストレスを感じていることが15日、宮城県教委の健康調査で分かった。多分、同じようなストレス、同じ程度のそれを皆さんも感じておられると思います。しかし、一概にストレスといっても、その言葉の意味を考えなければならない。例えば、サッカーで選手がゴールを入れたとします。すると同じチーム仲間が7、8人彼のところに一目散に走り寄ってきて、この選手の上に折り重なります。これは祝福の行為なのですね。あれは相当の重さになるに違いないのですが、手柄を立てた選手は彼を祝福する仲間の選手を振り払いながら起きて上がり、ニコニコしてグランドを走り回ってファンのゴールをアピールします。仮に、この選手が不調で落ち込んでいる時に、7,8人の仲間たちに折り重なれたらたまったものではないでしょう。たちまちあばら骨の2,3本は骨折するかもしれません。この違いは大きいですね。

先にいった意味で自己距離化によって自己超越を達成した人はこのようなサッカーの選手に似ております。彼らは心身のバランスをとることができます。自己超越を達成する場合、その人においては心身の不調に対する反抗が起こっております。保育士の皆さんはこの反抗という概念も子どもたちの成長から学ぶことができます。先ほど、私は、子どもたちは6歳位までに、「反抗(そこから後に、反抗力が生ずる)」することを学びます。これは何かすごいことですね。子どもたちは心身が不調に陥らないための反抗能力を発達させるというのです。心身の不調へ通ずる負荷を撥ね退ける力、最近専門家の間で1つの用語として概念化された言葉を使いますと、弾力性(リシリエンス)のことです。フランクルはこの反抗力を「精神の反抗力」と呼びました。彼によると、精神あるいは精神的なものは心的領域と身体的領域というそれぞれ閉ざされたシステムの両方を支配し、それに対して調整的働きを行うというのです。フランクルによりますと、この精神的なものは「不滅」だということです。そこからその都度の心身の状態に対する反抗力が出てくるとします。この反抗力が発達しますと、多少の負荷によっては心身の不調に陥らない。このような反抗力の源としての「精神的なもの」はフランクルによりますと、同時に愛することと望みをつなぐことの源でもあります。人間仲間に対する関係が、共同でする作業がこの愛することと望みをつなぐことでぐっと変わってきます。

心身の不調の代わりに心身の良好なバランスについて語ることができることはこれで納得がいったと思います。私が今朝から皆さんと一緒に行っている身体練習はこの心身の良好なバランスを保つための技法です。人間の中にあって、病にかかることも滅びるもこともない精神的なものの働きは人間の心身の統一、結びつきあるいは良好状態にとって決定的な役割を果たすのですが、一方、身体と呼吸と動きを調和させることによって心身の調和を図る、すなわち落ち着きと確かさを得ることも同時にできます。そのための技法は洋の東西を問わず様々な民族の文化財として与えられております。日本人よっても開発され、連綿として維持されてきた養生法には例外なしに身体練習が属しております。心は認知と感情という作用の場所と考えられますが、それらの心の働きの結果は必ずや身体において形を取ります。逆に人は次のようにもいうことができます。人間は身体面の事柄を調整することによって、すなわち身体と呼吸と動きを調和させることによって心の状態を落ち着かせ、ポジティブな情緒を活性化し、それを人間関係における伝達を改善し、安定させることができます。このような意味で、私は身体技法も私のこの度の皆さんのためのワークの中に取り入れました。

私のお話は以上です。ご静聴ありがとうございました。

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ミニ講義Ⅱ 希望は絶望の只中にある

2012年3月25日(日)13:00〜15:00

園長先生からいただいていた保育園と子ども子育ち応援センターについてのチラシを改めて拝見いたしました。その中で特に「保育理念」が記されておりました、興味深く読ませていただきました。「乳幼児はだれでも、愛されている存在であり、健全に育つ権利を有するとの理解に立ち、乳幼児の健全な育ちに寄与することを与えられた使命と受け止め、保育を実践する」保育理念は理念として一応はあるのだけれども、普段は目の前の仕事がありますから、あまり考えないということになりますね。目の前にいる子たちの教育や保育に専念しますから、どうしても理念は理念で遠いものになりがちです。それはしかし、遠いものとして皆さんの働きを規定するものでもあります。例えば、仕事をする時に自分の使命は一体何か?ということが分からなければ仕事はできません。仕事に慣れてきますと、どこかで気を緩める。そうしますと自分の仕事が本来何のためにあるのか分からなくなる。そのようなときに、「君の仕事の使命は何なにだよ」と、誰かがいってくれるととてもありがたい。しかし、その誰かはいつも一緒にいてくれませんので、理念というものがあて、それが自分のしている仕事が何のための仕事かを思い出せてくれることはとても良い。

保育士さんの仕事は「乳幼児の健全な育ちに寄与すること」であると書いてあります。「乳幼児が対象であり、この子たちの健全な育ちに寄与する。これがあなたの仕事のミッションですよ」というわけです。そのような仕事に一所懸命になっていると、この一所懸命になっている人はこの仕事に助けられる。この乳幼児によって生かされる。仕事はこの意味で大事です。乳幼児が健全な育ちをすることが私を生かしてくれる。私は学生に教えておりますが、百人くらいの学生に教えることはあまり得意ではありません。学生が平気で遅れ、また無断で授業半ばに出ていくことは許せない。気持が乱れ、何もなかったかのように授業を続けることは難しい。それでも授業は続行します。得意なのは少人数、例えば10人ほどの学生からなるゼミナールです。何れにいたしましても人間を相手にする仕事は最高です。これは相手が乳幼児であっても同じことだと思います。職業についてはいろいろ考えますが、個人的には地味で平凡な地位が最高だと思っております。

さて、私はミニ講義Ⅰにおいて、保育士さんは現在の仕事および生活環境からくる苛立ちやストレスが大変であっても、それを克服して、ともに働くことができるとしました。保育士の皆さんが望みさえすれば子どもたちの発達させる幾つかの顕著な能力から学ぶことができるとしました。保育士さん自身の精神の「反抗力」を使って、自分の置かれた不便な環境の中で工夫しながら働くことができるともいいました。私はこの意味では、皆さんの仕事にとって必要なことの少なくとも最低限のことは語りました。これからお話しするミニ講義Ⅱにおいて私は先の講義内容を幾つかの角度から深めたいと思っております。

2012年3月11日、日本人は東日本大震災1周年を記念いたしました。様々な組織の催しが行われましたが、私はただその一部をマスコミで追うことができただけでした。それでも幾つかのことが私の心を刺激し続けております。フクシマ原発事故の直後に撮影されて、放映されずに封印されたと思われる映像がNHKから放映されました。被曝した若者達の悲痛な言葉。結婚を目の前にした女性が被曝し、これからどう生きたらよいかを問うておりました。さらにまた自分はもう生き延びられない、仕事はどうなるのかと問うた男性の表情。閉塞感を訴える人々。最後に、10人ほどの若者たちが1つの部屋に集まり、悲痛な面持ちで沈黙している様子も映し出されました。荒涼とした街並み、猫の死骸も印象を与えました。

国の政治家、原子力発電所関係者、原子力関連の学者、マスコミ関係者は、庶民の国民感情からすると、彼らの信頼を裏切った。一握りの良心的な学者、研究者たちは役立つ情報を与え国民を助けてくれました。彼らは今も助けてくれております。庶民は原発の爆発を堪えるだけで精一杯だった。外国から届いたメーッセージは様々な形で庶民の沈黙を評価しました。忍耐と沈黙は日本人の特性だとか、美徳だという人々がおりましたし、日本の評論家の中にも日本人の忍耐や沈黙を奥ゆかしさとして賞賛する者がおりました。私自身、これは正しかったかどうか分かりません。声を出さなかったということはひょっとすると、敗北感、無力感、世界そのものからの疎外感、絶望、挫折感、衝撃などの表現として理解されるべきものかもしれないと思っております。この意味で私はむしろ今、英国の『ザ・エコノミスト』誌、2012年3月10日〜16日の記事のことを考えております。この雑誌の特集号「核エネルギー ― 破れた夢」(Nuclear energy, The dream that failed)の中に「信頼の死」(The death of trust)と名づけられた論説がありました。それはつぎのような興味深いコメント(30頁)で結ばれております。

「多くの日本の兵隊と市民たちは第2次世界大戦が終わる少し前、大将が彼らの国を破滅に導いていることに気づいてはいたが、敢えてそのことを口にしなかった。しかし、敗戦して初めて、彼らの大将が日本を破滅に導いたことを公言した。今の日本のムードはその当時のムードに酷似している。地震、津波そして原子力発電所の事故はあの恐ろしい日々以来日本にとって最大のショックだった。しかし、人々はまだそれを口にするには至っていない。それには時間がかかる。しかし、日本人が彼らのショックをいい表すための『声を見つけるなら、まだ再生の希望はあるかもしれない』」

私はこの『ザ・エコノミスト』誌記者の観察は当たっていると思います。彼の言葉は少しわかりにくいので分かりやすくいい直すとおよそ次のようになります。

第二次世界大戦中、国はどんどん変わった。この変化の最中、日本人はそれに気づき、「何か変だな」「何か大変なことが起こっているな」と思いはしたが、その時は何も言わなかった。しかし、この変化が破局を迎え、国が滅びてやっと人々は自分の国が変わったことを口にした。この戦後から今日まで65年経った。日本人はフクシマの原発事故による変化が大変な変化であることに気づいてはいるが、まだこの変化が何か大変な変化だというための声を見つけていない。もう少し時間がかかる。しかし、彼らがそのことに本当に気づき、本当の意味で批判の声を上げるようになる時は必ず来ると『ザ・エコノミスト』誌の記者はいう。そしてひとこと付け加える、「日本人が一度彼らの声を見つけるなら、日本の『再生』つまり『再び生き返ること』は可能である」と。

英国の優れた週刊誌の優れた記者にこのように言われると、私たちとしても気を良くします。皆さんも私も再生することを望みたいと思っています。私自身は東日本大震災のあと3カ月して仙台でこの震災から「元気を取り戻そう会」を作り、会の人々と共にあれこれと考え、ロゴセラピーという心理療法の業を提供して参りました。昨日午後も、皆さんのこの西郷の地でミニ講義Ⅰを行い、皆さんが、皆さんに託された子どもたちの能力の中から特にどのような能力を強めてあげたら良いか、そしてまたご自身の持つどのような能力をご自身の為に強化すべきかについてお話しいたしました。あなた方に託された子どもたちの能力を発達させることは結局、あなた方自身の能力を発達させることと同じことなのだといいました。「自己から距離を取って」「自己を超越する」ということについてお話しし、同時にフルに精神の「反抗力」を発揮することが必要だといいました。これは子供にも大人にもできることなのであり、フクシマ第一原子力発電所の廃墟の近くに住む限り、大人も子供もこの能力を使って人間改造をしてほしい、人間改造をしながら元気で生きていけるといいました。私は今日のミニ講義パートⅡにおいてこの人間改造を本気で行おうとするならその時心掛けるべき価値観についてお話ししたいと思います。

ヴィクトール・フランクルは、人間は3つの価値を実現するといいました。この考え方は彼のロゴセラピーが日本において普及するにつれて多くの人々に影響を与えました。第1番目の価値は「創造するという価値」です。創造するということは何かを作る、何かを立てるということです。物を作る、働く。働くといいましても肉体労働があります。その他に精神的労働もありますね。例えば、芸術や音楽を生む。また物質労働に依存しないような人間関係を作るということもあります。これまでになかったものを生み出す。フランクルはこのような「何かを生み出す」ことを創造する価値とよび、人間はそれを実現できるといいました。それを実現することによって意味深い人生を送ることができるとしました。皆さんが面倒を見ておられるまだ1歳くらいの子どもたちも自分が動けることを喜ぶとか、人に働きかけて反応をためすとかはできますね。これも「創造する価値」と呼ぶことができます。生まれて4,5か月の子どもが光や影、物の動きを知覚して反応する、環境に働きかける。これも創造する価値の一種です。

フランクルが注目する第2番目の価値は「体験する価値」と呼ばれております。この価値はこれまでなかったものを作りだすのではなく、すでに存在するものを享受する、楽しむという価値のことです。すでにあるものというと例えば、自然を考えればよいと思います。朝日が昇ります。私は北海道の函館の近くの半農半漁の町に生まれ育ちましたが、海から朝日が昇る、その美しさに感動しながら育ちました。漁をした船の処へ行き、魚を売ってもらう。そのときの真ん丸で大きい太陽の輝き、海の水のキラメキ、太陽が水平線から登る不思議さに感動しました。夕陽の美しさもまた格別なものです。フランクル先生も彼の有名な『夜と霧』という本の中で強制収容所の囚人たちが夕陽の美しさに感動した場面を何度か描いております。さらにまた皆さんも多分経験したことがあるかもしれませんが、飛行機に乗って小窓から下を眺めると連綿として続く山々、広大な原野があります。これは人間が生み出したものではなくて単純にそこにあり、その美しさはただ享受されることができるだけです。それは自然の偉大さを感じさせ、人間の心を癒してくれます。絵画とか音楽もまた体験されるものです。男女の愛も体験価値に数えられます。また、信仰深い人がいますが、彼あるいは彼女の神様への信仰もまた体験価値の1つです。自分からは何もできないし何もしないところに神様との交わりがある、この交わりは人間が生み出すのではなく単純に人間に与えられたものです。他に家族があり、働く仲間があります。家族も仲間も人間に恵まれてくる、そして受けるほかない人々です。すべてこれらの体験をフランクルは「体験する価値」という概念の中にくくっております。

最後に、フランクル先生は「態度するという価値」という概念も作りました。それは彼のロゴセラピーにおいて決定的な役割を果たします。私は昨日来、皆さんにこの「態度価値」について語ったことになります。人間にはどうしても変えることのできない状況があります。それは回復できない病、命が尽きて死を待つほかないという状況、そして取り返しがつかないことをしてしまったこと、つまり罪責、また心あるいは肉体の苦痛があります。一言で、苦悩する状況があり、それは変えられません。変えられないのですから、そこから逃げない。苦悩から逃げないばかりか、逆にその中に入って行く、そのことによって苦悩を克服する。フランクルは苦悩する態度を深め、それを業績にまで高めるといいます。また、ある調査によりますと、人間が100人いたら、50人は創造価値、25人は体験価値、残る25人はこの態度価値を実現しながら生きているとのことです。4人に1人が、解決できない苦悩を悩み、それから逃げようとしないことによって逆説的に苦悩を克服していることが分かっております。

これは普通の考え方とは少し違いますね。普通の考え方では苦悩は避けるべき、忌むべきものであり、その中へ入って行くというのはチョット可笑しいと思われるかもしれません。しかし、フクシマ第1原発の爆発以来私たちは放射能と共に生きていくほかはありません。大人も子供も、男も女も、偉い人も偉くない人も、原発事故の責任者もその被害者達も事実上区別なく、放射能と共に生きるほかはないのです。原発事故の責任者追及は1つのことですが、責任を追及する者も責任を追及される者も等しく原発汚染という事実の中に生きているということです。両者ともにどうにか一緒に生きる以外にはありません。誰であれ、原発事故という動かしがたい事実に対して工夫を重ね続けるという態度で生きていく。保育士さんたちは園児と共にできるだけのことをしながら生きていかなければならない。その中で人間改造をしていく。

私が昨日使った言葉を再び使うなら、私たちはますます「打たれ強くなる」。まさにこのことの中に価値を見出し、それを実現する生活もあるのです。この価値を実現しながら人生の意味を噛みしめることはできるのです。それを欲する意志を強化する、昨日申し上げましたように、自己から距離を取る訓練をし、自己を超越する練習を積み、心身の調和を得られるようになっております。私は昨日、子どもたちも自己距離化と自己超越の能力を発達させることができるといいました。保育園をこのようなことができる場所として理解すること、そしてそのことの中に誇りを感ずるようになることは子どもたちや保育士さんたちのみならず、子どもたちのご両親あるいは保護者にも良いことです。

私たちの国の総理大臣は先だって「安全な原発はない、その時々改善していけばよい」といいました。彼はこういうことによって費用と安全を無視しております。先に引用した『ザ・エコノミスト』誌は原発維持に必要な費用は支払い不可能であり、安全を確保するということは元来危険なものは持たないということだとしておりました。総理大臣の言葉は避けられる苦悩は避けなければならないことを無視しております。この無視は本当の意味で苦悩に入って行く態度ではありません。むしろ反対に、現にある苦悩、現に苦悩する人々を見ようともしない態度です。加えて、原子力の平和利用は政府の宣伝に反して、いつ軍事利用に転化するか分からない。私たちはのことも見ておかなければなりません。IAEA(国際原子力機関)は原子力の悪利用を防ぐ国際機関ですが、そこでは日本が原子力の軍事利用を始めないよう警戒しております。

ドイツは福島原発事故の後いち早く脱原発を公表し2022年までにすべての原発を廃棄することを議会で決議しました。スイスは2034年を目途にすべての原発を停止することに決めました。このような態度はヨーロッパの国々を動かしています。このような態度こそ苦悩に入って行く自由を持つことの証拠です。福島のみならず周辺の地域においても放射能汚染のゆえに健康を害する人々がこれから益々出てくることは目に見えております。また実際生きていけないほど身体が重苦しくなり命を絶つ方々も出る可能性は見通せます。原発事故が起こったということはこのようなことを含みます。ですから、「態度する価値」を実現しながら苦悩に入っていき、苦悩が苦悩ではなくなるところまで自分を持っていく。同時に、その役に立つ身体技法を学び続け、この意味で人間改造を行うことは重要です。

フランクル先生は人間を生死から解放する道を示しました。

「およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ」と。人間という存在の完全性の尺度は、彼が苦悩と死を見つめる能力が発達しているかどうかだというのです。

むのたけじという秋田県横田市の作家は福島原発事故の後すぐ、『希望は絶望の中にある』を出しました。絶望の原因を凝視する以外に希望の在り処を見つけられないとしました。本当に絶望を凝視すると必ずや望むこと、望みをつなぐことは起こるとしました。彼は当時96歳だったと聞いておりますが、むのたけじさんはこのようなメッセージを世の中に送り続けております。希望とは、苦悩と死を素通りしてどこかにあるかもしれないユートピアを描くことではありません。

さらにまた、私がまだドイツで学生をしていた時から愛読しているルーマニアの哲学者、エーミル・ミハイ・シオランは書いています。
「我々は地獄の底にいるが、地獄のどの瞬間も奇跡である」
この言葉も私たちを助けます。シオランは生涯、生まれてきたことがすでに罪だという観念から自由になれませんでした。シオランは主著の1つに『生まれることの災厄』というタイトルをつけました。彼は一般には、ペシミスト(悲観主義者)と言われ、常にネガティブに人生を眺めたといわれます。その彼がいま引用した言葉を書いたのですから不思議というほかはありません。

彼はまず、いいます。
「我々は地獄の底にいる」
と。この地獄はどう試みても脱出できない。地獄のほかに人間の住処はない。これはハードなことであり、フクシマ原発事故以後の事態です。しかし、シオランは続けます。
「地獄にいるどの瞬間も1つの奇跡だ」
と。奇跡という言葉は地獄という言葉に対比されています。地獄が苦悩の象徴だとすれば、苦悩の中にいて苦悩から脱した状態、「苦悩にも拘らず、生きることができる」状態をシオランは「奇跡」という命名します。地獄(苦悩)はそれ自身の中に苦悩からの解放(奇跡)を含むということができます。つまり絶望の只中にこそ希望があるといえます。これは実に不思議なことです。

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