言葉と沈黙と 第8号

2014年7月

琉球大学構内に咲く月桃(サンニン、ゲットウ)

読者の皆さまへ

『言葉と沈黙と』第8号をお届けいたします。
皆様におかれましては、元気にお過ごしのことと拝察しております。
強烈な台風が沖縄からゆっくりと九州に入りつつあり、仙台もすでに雨が降り続いております。沖縄では多くの怪我人が出ているとの報道を聞きました。ご無事を祈ります。

さて、私儀、今年の3月末日を以って大学を定年満期により退任いたしました。
4月中旬にはオーロラビル内へ引っ越し、目下、暇を見ては少しずつ片づけております。溢れる書籍の整理に悪戦苦闘の最中です。研究所は一階下ですから理想的となり、二つの場所を往来しながら研究所での仕事に専念することができます。また、このビルから仙台駅は近く、市の中心部まで徒歩15分ほどで行けますから便利です。車の必要もなくなり、生活のリズムがゆったりとしたものになりました。

現在、研究所の事業内容の輪郭をホームページの「対話の広場」の頁の中に掲載し、幾つかのエッセイは進行中です。お暇の折にご覧ください。ご感想等も窺えれば幸いです。

目下のところは、共にウィーン生まれでナチスドイツに迫害されながら第二次世界大戦を生き延びたフランクル(1905〜1997)とドラッカー(1909〜2005)が人生と精神性と倫理性と感性において非常に近いものを持つことを論証するエッセイを書いております。両者が相補関係にあることを証明し、弊研究所においても労働と経済と産業と社会と政治をロゴセラピーの哲学と心理療法と並んで論ずるいっそう固い基盤と広がりが与えられることになります。現代の卓越した人々と対話するなかでロゴセラピーと実存分析から最善、最高のものを引き出しながらこの時代を歩み続けたいと思います。ドラッカー先生はフロイトとアドラーとユングまでは言及しましたが、フランクル先生と対話をするに至りませんでした。二人がいまの時代に出会ったら互いに何を語るだろうかを空想しております。5年ほど前、「ドラッカーとフランクルは相乗効果を発揮する」という論文を東京のドラッカー学会から発表しましたが、少なからぬ人々に深く読んでいただいたことを改めて思い出しております。

皆様方のご健勝を、研究所に連なるすべての方々とともに念じ挙げます。

合掌

安井 猛

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特集 時のしるし 佐賀新聞電子版から

6月24日朝、目に入った佐賀新聞電子版のタイトルは「大人が忘れてしまいがちなことを小学3年生が書いた詩『空はつながっている』から学ぶ」というもの。前日の23日は沖縄慰霊の日。沖縄県平和祈念資料館はこの日のために「平和の詩」を募集し、1588点の応募の中から選ばれた1点が「空はつながっている」とのこと。この詩を書いたのは真喜良(まきら)小学校三年生の増田健琉(たける)君。戦争で家族や友達を亡くした人に気持ちが伝わるようにと思いながら朗読したそうです。世界の大人たちに向けた8歳の少年の祈り平和への願いは、BUZZNEWS.asiaではYouTubeで、沖縄タイムス+プラス、朝日新聞デジタル、琉球新報等々にも詳しく掲載されていました。
(やすいういこ)

詩 空はつながっている
真喜良(まきら)小学校三年 増田 健琉(たける)

僕のお気に入りの場所 みどり色のしばふに ごろんとねころぶと
そよそよとふく風がぼくをやさしくなでる 遠くでひびくアカショウビンの鳴き声
目の前ではお母さんやぎがやさしい目で 子供たちを見まもっている
青あおと広がるやさしい空 (*註 アカショウビンはカワセミ科の水鳥)

でも 遠くの空の下では 今でもせんそうをしている国があるんだって
ばくだんが次つぎおとされ なきさけびにげまわる人たち 学校にも行けない
友だちにも会えない 家族もばらばら はい色のかなしい空

空はつながっているのに どうしてかな
どこまでが平和で どこからがせんそうなんだろう どうしたら せんそうのない
どこまでも続く青い空になれるのかな

せんそうは国と国のけんか ぼくがお兄ちゃんと仲良くして
友だちみんなともきょう力して お父さんとお母さんの言うことをきいて
先生の教えをしっかりまもる そうしたら せんそうがなくなるのかな

えがおとえがおが 遠くの空までつながるのかな
やさしい気もちが 平和の心が 丸い地球を ぐるっと一周できるかな
まだ子どものぼく いのる事しかできない

どうか せかいの子どもたちみんなが 学校に行けますように
友だちとあそべますように にこにこわらって 家族でごはんが食べれますように
夜になったら すてきなゆめが見れますように
しあわせでありますように いつか友だちになれますように

白い雲 ぼくの平和のねがいをのせて この地球をぐるっとまわって
青い空にそめてきて

きっと せかいは手をつなぎ合える 青い空の下で話し合える
えがおとえがおでわかり合える 思いやりの心でつうじ合える
分け合う心でいたわり合える 平和をねがう心で地球はうるおえる

だから ここに こんなにきれいな花がさくんだ
だから こんなに ぼくの上に 青い空が広がっているんだ

(仮名遣いは総て原文のままです)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ご自分でインターネットを開きたい方へ
「空はつながっている」 ⇒ 「検索」できました。

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若者とこれからの意味ある企業の課題

安井 猛(PhD)

働く意味を考えることは最近ますます弊研究所の焦点の一つとなりつつある。これは世相と関連しているようだ。若者にしても、中高年にしても何らかの理由から働きたくないあるいは働けないことがあるが、どのようにそれに対処するかは問題となる。一方で、働くことが好きだが、働きすぎに気づかないという問題もある。先だって、オープンザ研究所の集まりで、この働きすぎが対話の焦点となった。官庁から委託を受け、現場を視察し橋あるいは建物の図面を作成する。それに携わるあるいは携わった二人の経験を聞くことは興味深かった。彼らが朝9時から夕方遅くまで、時には夜中の12時過ぎまで働くことは常識になっていると聞いた。社員は猛烈に働く。課題を黙々とこなし、昼食も仕事机についたままとり、仮眠をし、再び仕事に集中する。図面作りのほか、委託者からの電話との応対も昼夜を問わず頻繁となる。子供たちとの接触はほとんどない。土日も会社に出る。月曜日までに課題を片づけるためである。メンタルヘルスのチェックを必要とする人がでる。働き方の改善は難しい。働くことの意味を問い直すことなどできないし、そのような気力も残っていない。

厳しさに耐えられず、途方に暮れる。それは突然、職場を放棄することに通ずる。彼らの先輩にしても、入社後、彼らの同僚や上司に「しごかれる」なかで「強く」なっていったので、新入社員を当たり前のように「しごく」側に回る。「オレタチモサイショハソウダッタ」などと言って、その無意味なことばを後輩への勇気づけと考える向きもある。理屈に合わない仕事モラルを後輩に強制する。

参加者の一人は、私の数年前提供した「卓越した仕事の為の『構え』を作ろう」というセミナーの参加者だった。彼は当時やっとのことで時間を取ってセミナーに出ていたのだろう。彼はその頃のことを思い出し、「あのセミナーには救われた」と語った。会社は普通、役所からの仕事環境に関する定期監査を受けると思われる、それが働く者たちの心理的健康維持に貢献すればよい。しかし、ひょっとするとこの意味での監査と言えるものはまったくないのかもしれない。

学生は22歳で大学を卒業する。大学は学生が卒業後就職できるよう体制を整えている。能力アップのための科目を提供する。学生を三年次の終わりごろまでには、就職戦線で勝てる状態にする。学生の就職率は、大学が学生を集めるための重要な役割を果たす。ひょっとすると、22歳で世の中に出るのは早すぎるような学生がいるかもしれない。もう1,2年ほどかけて自信がつくと成果につながるかもしれない。そうすると後の生き方と働き方を鍛える基盤を築ける。労働世界の中で確かな仕事ができる。日本ほど大学が学生の就職のために手を尽くす国はおそらくないのではあるまいか。日本ほど学生の自律性の育成を阻害している国はないのではあるまいか。大学は学生に知識と知恵と自立能力をつけさせさえすれば、その役割は終えたのである。そこから先は学生の自己マネジメントの事柄となると考えてはどうか。

日本は少子高齢化の時代に入っている。この人口問題は労働のシステムと経済を支配する決定的要因である。日本の産業界はこの問題を解決するために一つの方針を立てた。終身雇用性を保持すると同時に、会社の正社員のほかに派遣社員と賃金の安いアルバイトという雇用カテゴリーを創ったことである。彼らは新しい環境にフィットするための学習を継続しなければならない。

会社の指導層は自社の生き残りのために絶え間なく変化し続けなければならない。彼らは環境の恒常的な変化に対応するために自らに変化を惹き起こす者にならねばならない。同時に、企業の外の市場に出ていき、優秀な知識労働および知識労働者を発見しなければならない。

目的に応じて一時的に雇用された知識労働者は、他の知識労働者とともに「知識共同体(ナレッジ・コミュニテイ)」の一員であり、その中で相互のサポートをしあう。彼らは一時的に働く職場においてその職場の正社員の知己になるに及ばない。職場の成員もそれを望んでいるわけではない。それは不必要である。
すべてこのような仕事環境の組織は、着々と進んでいる。企業人も労働者も良かれ悪しかれこのような組織化のプロセスの中に生きかつ働いていることは我々の共通認識となりつつある。 この変化についていけるか、自分のキャリアはどうなるのか。我々は不安の中に働くことを余儀なくされる。これが我々の現在の状況である。

誰が一体、解雇された労働者を再教育し、新しい仕事場を用意するのだろう。
産業界のリーダーたちがこの問いに対して有効な答えを出すことになるけれども、その際重要なことはロゴセラピー的に言うと、まずリーダーたちは彼ら自身のみならず労働者に対しても責任を取れる解決を見出すことである。このスタンスの枠内で、リーダーたちは自らを状況の要求のもとに置く。適度に、そして節度ある仕方で様々な見解を調整すること、最後にリーダーたちは「人間は意味に満ちた人生のために努力しなければならない」というロゴセラピーの原則を離れないことである。

ピーター・ドラッカーは絶えず日本の経済界の動きを観察し、経済界のリーダーたちに助言してきたが、企業そのものが解雇された労働者の再教育と再雇用を配慮することになるという見解をすでに1990年代の後半には日米両国においても表明していた。
これは、リーダーは清廉潔白でなければならないというリーダー観と「まず、害を加えるな」という社会的責任の倫理からくる当然の要求である。「まず、害を加えるな」は、紀元前5世紀のギリシャの医者、ヒッポクラテスの言葉だが、ドラッカーはそれを彼の社会的責任の倫理として使ったのである。これはフランクルの「人間は意味に満ちた人生のために努力せよ」というロゴセラピーの原則に通底すると考えられる。
私個人としては、日本の若者たちがこれからの少子高齢化の時代を、害をこうむることなしに意味深く形成できることを願っている。

2014・07・記

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日本ロゴセラピー&実存分析研究所に通い始めて

ロゴセラピスト教育研修生 千葉 史也

仙台駅東口からほど近いビジネスホテルの玄関を出て、榴岡の通りを抜け研究所へ徒歩で向かう。今では楽天球団の本拠地に程近いこの地域は、駅前の予備校に通うために住んだころの閑静な住宅地の面影はなくホテル、マンション群が林立する商業地へと変貌している。その変わりように驚きつつ、今日、同じ地を苦い懐かしさと希望を胸に歩いている自分自身に対して不思議な感慨にとらえられた。かつて「青春の坂道」という歌があった。「青春は長い坂を登るようです。誰にもたどりつける先はわからない。」というフレーズが思い浮かぶ。人生はたどりつける先のわからない変化の連続である。そして希望とは変化する外界との接続である。

過去を変えることはできない。未来を確定的に診断することも不可能である。もしも未来を確定的に診断することができたらどうだろう。過去の自分を操作して望ましい未来へと台本を書き変えることができる。それができたとしたら今の自分は何であろう。今をともに生きる人々との関係はなかったことになるのだろうか。それが思い描いた人生と異なっていたとしてもその価値を比較して論じることができるのだろうか。

かつて思い描いた人生と現実の人生とどちらかひとつを選んでよいといわれても私はこの人生と答える。人が生きるためには外界との信頼の支えが前提となる。幼い子供は親や周囲の大人たちからそれを与えられることにより安心して生きられるが、思春期を過ぎると自律して外界との信頼関係を構築しなくてはならない。そして時間をかけ一人の人間として社会あるいは誰かに貢献しうる能力を開発し、それを通じて初めて自らの人生の意味を了解する。その過程こそが人生であり、その過程を省略して幸福な結果だけが招来したとしても所詮は他人の人生であり、自らの人生としてその意味を味わうことはできない。一回性のこの身体を通じて獲得した結果であるがゆえに人生はかけがえがなく尊い。

藤沢周平の短編小説集「橋ものがたり」は、登場する女性たちが各々悲しい結末にもかかわらず、誰かに献身したその結果を自らの人生と引き受けて決して蔑まず、はかなさとともに強さが感じられる作品のひとつである。作品は、人は現実と格闘するしかなく、それがどんなに不十分な環境でも外界と切断して人生の意味を実現することはできないことを物語る。

人は他者なしで生きてはいない。ゆえによりよく生きるためには他者とのコミュニケーションの回路が開かれてなければならない。この回路が正常に機能しているとき信頼関係は整っている。信頼が欠如すると人の行動はぎこちなくなる。信頼の反対は無関心である。

無関心は人間の主体性、今まさにこのときを生きていることへの信頼の欠如である。その結果、人間性は切断され対象(道具)化する。そして主体本来の自由な自己実現の道は阻害される。

v.フランクルには、E.フロムとともに足立叡教授(現淑徳大学学長)の対人援助技術(ケースワーク)論を通じて出会い、その思想の深さに引き込まれようにして福祉の現場へと導かれた。その後現場を離れたり、さらにまた現場に近づいたり、職業生活を送る過程で折にふれ彼らの著作を読み返すうちにフランクルの思想を軸に直接的な実践を具体化したいと思うも学問の場は大学という固定観念に縛られていた。実際そうした取り組みにも出会わなかった。しかし、温故知新、古くて新しい先人の教えが再評価されるときが目の前まで来ていると感じられる。

既存の枠組みや制度では捉えきれない課題や需要に対応することはP.ドラッカーが唱えるイノベーションに違いない。この研究所の存在によって私が意味の実現を図る契機を得られたことは本当に幸運なことである。

なぜなら人生がそのことによって確かなものとして導かれるからである。自分が楽に生きつつ周りにいる人も楽に生きられるようマネジメントできたらどんなにかよいだろうと思う。そこが自分の目的地だ。利益は必要だが結果である。あるいは事業や事業に伴う生活を維持するための条件である。それなりの工夫はいるが、何より重要なのはひとりひとりのやりたいと思うことが社会に貢献しうると考えて第1歩を踏み出す勇気である。あえて人がしないことをするということも。自分の能力が誰かの役に立つという満足感こそが報酬の第一義でなくてはならない。

強みを生かすことは劣等感を排除し寛容でいられるという効果もある。人生には信頼関係に基づく依存が必要である。既に日常生活が貨幣という信用を介する依存に支えられている。完璧への欲求は、他者とのコミュニケーションの回路を窮屈にし、ひいては遮断する。むしろ他者と補完しあえる対話力こそ身につけるべきである。

人がその強みを頼りにしながら直接的で密度の濃い対話と交流する場が増えていくことは閉塞する社会の処方箋でもある。今とこれからを生きる人々にその気づきの場を用意する必要を感じた安井先生がこの地で先駆的に取り組んでいると私は勝手に思っている。そして人々がフィードバックによる学習とイノベーション(自己変革)を繰り返し、対話と交流を続けることにより社会は今より生き易くなるものと信じる。私も他者とよく生きるための一歩を踏み出そう。

セラピーを実践する際は、ぜひ読書療法を行いたい。この研究所に通うまでの時間は私の精神にとって言わば潜伏期間であった。この間に怠惰にもかかわらず敬愛する著者の作品、教えに接することにより研究所との出会いが方向づけられ、その結果やりたいことが見出された。この研究所で学びながら書物の持つ力を外界との接続を強化するツールとして大いに活かしたい。

本文を記すにあたり、その表現において安富歩氏の著作「ドラッカーと論語」(東洋経済信報社)等を参考にした。蓄積された現在までの自分の思いに一致するところが多く、かつたいへん示唆に富む内容であった。

(2014年7月6日)

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ナルシシズム

ロゴセラピスト養成教育研修生 渡邊 弘毅

今年度から、ロゴセラピスト養成教育研修講座の受講を始め、「セラピーをされる側」から「セラピーをする側」への本格的な修行がスタートしました。私の場合、今学習している様々な基礎理論が、これまでの実体験を振り返ることで反芻でき辛かった時間も無駄ではなかったと改めて思い返します。

特に、6月度の「ナルシシズム」のチャプターは感慨深く、自分の過去の心理的メカニズムが良く理解できているような気がします。「自分はこれだったんだ!」と端的な表現であるナルシシズムという単語を客観的に見られるようになった自分が、成長しているのだと実感する毎日です。

相手の心理を言葉で癒すロゴセラピーを習得するのは、そう簡単ではありません。でも、心理とはどのようなメカニズムであるかを理解するのは、私にとって非常に興味深いものです。「その人の人格を保持するために、周りの環境を即座に判断し、脳が勝手に下す判断」がそもそもの原因らしい。昔なら、社会的に他人を配慮するゆとりがあったため、各人の脳が下す判断で行動することが寛容であったであろうが、現代社会はそれが極度に制限されるため、ストレスを抱える人が多いのであろうと思った。物質主義が優先され人間性が疎かにされるようになると、人は自分のことで精一杯となり、他人の事まで配慮できなくなり、人の価値観を傷つけてまで、自分が優勢に立とうとするやりかたは、人と人のコミュニケーションを益々悪化させ、孤立を招く結果と成るのではないかと心配です。なぜ、ここまでに個々の価値観を尊重しない(できない)世の中になってしまったのか?

私が思うに(私も特にそうであったが)、失敗を恐れ新しいことに挑戦しないと、何事も始まらない。この挑戦することは非常に勇気を要し、怖いことだが、誰しもが経験しないと前に進まないし、自分の成長にも繋がらないと感じます。子供から大人へと成長することは、この挑戦をし、時には失敗をし、その辛さを癒すことを何度も繰り返すことで、恐怖心が自信へと変ってゆくことだとの認識を得ることが出来るようになりました。

いままで「嫌と感じてきたこと」は未来への財産として、これからもいろんなことに挑戦してゆきたい気持ちになれた今日この頃です。

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セラピーを思うとき

つづら あゆむ

人は本来、家庭生活、社会生活(教育・職業・地域参加)、精神・宗教生活を通して自然に自己の内的環境を整え修復してゆく能力を持っている。所長はかつて、フランクルとドラッカーの相乗効果の素晴らしいことを語って下さった。セラピー全体が、発展進化を遂げる必要の瞬間に今まさに至っているのだろう。

アプローチの視点は多々あるにちがいないが、特に注目したいのが、セラピーにかかる費用の負担を誰が担うのがベターか公平かという視点である。財力のある人だけがセラピーの恩恵に浴し、財力のない人々は恩恵にあずかれないような、その人々を無視し落ちこぼしてしまう現代の社会経済システムをなんとかしたいものだ。

本来の真実のセラピーが、社会の津々浦々にゆきわたったとき、社会は人間は本来の自然治癒力・再生力を取り戻して行くのだろう。

研究所で学び始めて数年、以上のようなことを時々思う。社会経済システムを考えるのはむしろ経済の専門家でない方が…とも思う。

ゆったり、しっかり、考え続け、実践に移したいと、今しきりに思っている時である。

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最近のこと(ニュース)

会社員 佐藤 順子

先日主人と二人で娘が住む町と実妹が住んでいる町を訪問しました。
娘は一日休暇をとり、久しぶりに親子三人、小旅行をしました。
行ったところは伊勢神宮、『この先の日本がどうか佳い国でありますように。』思わずそのことだけを願っていました。

ありがたいことに、私たち親子は美味しく赤福をいただいたり、もう一人の娘のために彼女が好きそうなお土産をいっしょに思いをめぐらせて買い物したりする平凡な親子です。
また、次に訪れた実妹家族とは毎晩美味しいお酒と料理をいただきながら尽きることない話をする同志でもあります。
このような時を過ごせることにとても幸せを感じ、感謝しています。これもこの時代に出会ったからでもありましょう。

数週間前、通勤途中のことです。ある若いお父さんが私の前を歩いていました。
彼はとても姿勢がよく、おぶいひものだっこ版で赤ちゃんをだっこしていました。
彼もあきらかに通勤途中でビジネススタイルです。堂々としていてさらにやさしく赤ちゃんの頭を撫でながら歩いていました。
おもわず朝から笑顔をもらいました。

二、三日前、いつものことですが施設にいる母を訪ねた時のことです。
お天気が良かったので車いすを押して近くの公園に行くことにしました。
緩い坂道の途中、全く知らないお嬢さんが「こんにちは」とごく自然に声をかけてくれました。
彼女の後ろ姿もとても姿勢がよくてなんだかこちらも気持ちよくなりました。

昨今いろいろとよくないニュースを耳にしますが、手前味噌のようなことなども含めて、こんな身近なことをお届けできるのはちょっと佳いのでは。。。

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時のしるしを読む

ロゴセラピスト研修生
会社員 千葉 幸恵

近年使われるようになったフレーズ『コミュニケーションがとれない若者』が気になっている。私自身がひと様との関わりでは失敗を重ね周囲に許され助けて貰い生きてきたので他人事ではない。このフレーズを「時のしるし」として、一つの出来事から考えたことを書いてみたいと思う。

ある土曜日の朝、私は顧客として一本の電話をした。担当者が接客中だった為、折り返しの電話を待つことになった。週末なので先方が忙しいことは予想していたが、若い担当者からの電話は翌日の昼だった。

私自身が職務で顧客の電話対応にあたる際、2年ほど前から若手社員への「折り返しの電話がこない」「約束の時間に来ない」という社会生活の基本的な内容での苦情が増える傾向に気が付いていた。社内においても時宜に叶った報告や相談ができずに受け手の上席と話し手の部下の両者が苦労をしている姿を見かけるが、このような時、(社内外に関わらず)仕事には相手の存在があり、相手の生活(仕事)の時間の一部を頂いているという感覚を養うことが求められているのかもしれないと思う。

若い世代と仕事をしていて気が付くことは、親世代とも言える私達が社会人となった頃との社会状況の違い、IT環境への適応力の高さ、社会から求められるものと受けた教育との距離に直面し自分の身に何が起きたか理解や説明ができずに孤立感を伴い困惑しているということだ。上に書いた電話の例からは、誰からも社会での生き方を教わっていない、あるいは電話に気が回らない、かけないことに対して麻痺するほどの環境に置かれているなどの現実が見えてくる。

彼らと話をすると、仕事を覚え厳しさを厭わず成長することを求めていることがわかるが、これまでにそれを表現する方法を学ぶ機会に恵まれず、また受け取る器のふたがうまく開いていないだけのように思う。

一方で現在、指導をする立場の管理職層の多くはバブルと言われた頃に青年期を過ごし、特に男性は心身に負荷のかかる相当厳しい経験をしてきている。パワハラ・モラハラ等という言葉が認知される以前の時代だ。かつて得た経験と変化した現在の世の中との狭間に置かれ、若者同様、説明のできない何かに行きあたって困惑する姿にコミュニケーションに戸惑っているのは若者だけではない社会の別な側面を思う。

そこで私は若手との関係作りに向き合っている方々に向けて、彼らの為に、わかったふりをさせずに済む環境を作ること、その場にいたたまれなくなる状況にならない配慮をすること、その上で困っていることを彼らから個々に引き出す為の"会話"をこちら(・・・)から(・・)始めよう、と呼びかけたい。

「何がわからないかがわからない」こんな言葉が出てきたらしめたモノだ。安心できる関係に身を置いて、フィードバックを得る面白さを一度身に付けたその人は自信を持って自分から質問できるようになる。その時管理職はコンプライアンスやハラスメントへの危惧を抱き委縮することなく、自分の培ったノウハウを教えることができる。このような会話を通し『相手』を知ることが若手と管理職双方にとって「コミュニケーションが取れない」の中身に触れていく一歩になるのではないかと思う。

賃金を支払っている会社がなぜそこまで?と思うかもしれない。実際、それはもっともなことだ。

業績を求められる組織にあっては一見遠回りに思えるかもしれないが、若者は柔軟でどんどん吸収し自立し始める。私はこの関わりが次世代を担う若者に人生の豊かさを贈ることに留まらないWin-Winの関係であり、それは社会の豊かさへの循環が始まるきっかけの一つになるかもしれないと思った。

私達が見守る眼差しを失わず誰かが自分で考える為の『間』を尊ぶことができたら、それは自ら発展する自立した組織へと変化する最短距離への始まりではないかと思う。

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時のしるし

研修生
派遣業務 盛一 美那子

ロゴセラピーに接する機会を得て早八年。その中での教えの一つに「人生は終わりから考える」というものがありました。

限りある人生、目標を持って日々を暮すことの大切さは誰もが理解しつつも、日常の中で意識に上ってくることは少ないと思われます。 これまで、ただ、慌ただしさに流されるように日々を過ごしてきてしまった私は、ロゴセラピーを学ぶことを通してやっとそのことを意識に据え、新たな目標を建て、還暦を迎える時点には達成したいこととして目指し、今、それに向けて少しずつ今までの自分の行動を変えようと試み、経験したことのない新しいことに取り組み始めています。

一念発起して行動に移したことで、学びに則した発見も多々在り、驚きと共に喜びも覚えるその体験が生活にも充実感をもたらしてくれているのだと実感しています。

目的を携え臨む仕事は、私自身の意識の持ち方一つでその意義が大きく変わるものであることを実体験できたのです。家族の心配を押して踏み出した経緯もありましたが、自分の意識を変えそれを貫いたことにより、協力体制が整うという思いがけぬ副産物も得ることに繋がりました。

このことに力を得て継続に努め、目標に近づいていこうと考えます。後々に今日の、今の取り組みが好転の大きなしるしとして刻まれているであろうことを描いて。

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コラージュ・・・ロゴセラピスト教育研修・方法論演習

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時のしるしを読む

薬局勤務 松田 史子

昔、実家のリビングには先祖の写真が6人並べて飾ってあった。おしゃべり好きだった父は家族団欒の時間に自分の体験してきたことや先祖がどのような人だったかをよく話していた。幼いながらも想像しながら聞いていたのを覚えている。

私が今現在こうして過ごしている証しは父と母がいたことによって私という命をいただき生かされている。そして父と母にもまた大きな影響を受けた父と母がいる。私たちが生きている間は長い歴史から考えると一瞬の命なのだが、生まれてからたくさんの影響を受け、大小の差はあるが自らもたくさんの影響を与えていくのだろう。

今日、異常気象や民族の争い、また数々の事件など怖ろしい犯罪も増え続け、どうなっていくのだろうというニュースばかりが流れている。

生活する中には思いがけないことが突然起こることもあり、一つのことを乗り越えるために自分は何ができるのか自分の役割と責任はどこにあるのか、またどのように生きていきたいのか意味のある態度をとる決断の力が必要になるものだ。

最近読んだネルソンマンデラ氏の言葉の中に「生きる上で最も偉大な栄光は決して転ばないことにあるのではない。転ぶたびに起き上がり続けることにある」その言葉から勇気をもらった。さまざまな経験の中で過ぎ去ってみると現実と向き合いながら今までどのように乗り越えてきたのだろうと振り返る時、周りのたくさんの人から力をいただき突き進めたこと、またどんな時も乗り越えられるという根拠なき自信がどこから湧き出てきているのか不思議な力をもらっているように思う。

小さい頃、親が話している言葉の中に「必ずどうにかなる」という親の生き方やメッセージが知らない間にインプットされているのだろうか。確かに生きてる上ではなかなか解決できないことや疑問に思い、それならどうすればうまくいくかなどと考えることも多々あるのだが、それは、自分が気づく必要のある自分の足りない部分や大切なことに気付かせてくれようとしているものとして捉えるようになった。

人、物、植物すべてに関して、一つ一つのことを大切にしていくことをこの歳になってやっと実感している。また歳を重ねるごとに苦しまず楽になるこころの在り方としてシンプルに生きること、変えられないことは思い出さない、考えない、ということも時々実践している。

50代の今、周りにはたくさんのお世話になっている人や環境に満たされ感謝している。これからも健康に留意し仕事を通して日々、人様の役に立つことができるように社会と関わっていきたいと考えている。

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時のしるし - 旅 -

やすいうゐこ

人はみな旅をしている。
旅をできない人のためには、こちらが出かけないから、向こうから来て下さる。そして、世界は広いことや、普段には思うこともない事柄など沢山教わるから外国人との出会いは師匠に出会うようなものだ、と、当時アフリカ大陸を逃れてドイツへ亡命したエリトリア人家族を自分の家に招き、彼らが帰国できるまでの数年間、衣食住のお世話をしていた知人のドイツ人が語ってくれたことがある。30年前の彼女の言葉を思い出させる出来事がつい先頃我が身に起きた。

今期、弊研究所主催のロゴセラピスト教育研修には、遠路を遥々お二人が加わった。ご夫妻で計画中の仕事に役立てるための勉強です、と、希望に燃えて。もうおひとかたは日本の最南端のあの沖縄から将来への夢と希望を抱いて…のご参加と伺った。

研修は、V.E.フランクルによるロゴセラピーは勿論。日本の社会事情、経済状況、時事問題等々に対応する講義も加わる。ドイツ語・英語から直訳されたテキストは縦横無尽に活用されて、心理療法士である前に一人の人間として、生き方のマナーを学べる深みがテキストの行間にはある。私自身のために欠かすわけにはいかない真正の研修。至福のとき。気も引き締まる修行の時でもある。

6月21−22日、研修の合間のよもやま話の中で、6月23日は沖縄慰霊の日だという話題になっていた。えっ?沖縄慰霊の日?…。寝耳に水とはこのこと!わたしは1997年に24年ぶりに帰国して以来、23日が何の日かを考えた記憶がないことにも気づかされ愕然とした。6月中旬は次女の誕生日と命日が重なるので気を取られていたのかもしれない。だが、それにしても沖縄慰霊の日を知らない事実は、猛烈にはずかしく言葉にもできず、団欒のその時は何も言えなくなっていた。

研修も終わった後日に急遽、生涯塾の年間予定表に日本国内の大事な記念日を記入してみた(下記)。と、驚いたことに、見れば見るほど解ってくるのは、日本の戦後は未だに終わってはいない、ということなのだ! 戦争がなぜ起きたのか、今は詳細を知る人も少ない、戦争中の整理も未だきちんと出来ていない。戦後の復興に力は注いだが、その芯のこころはどこかに置き忘れた復興であったことか。国連の情報が国民に届けられていないことの裏も探りたくなるというものだ。じわじわと解ってくることが沢山在る。

ヒロシマに生まれ育った故に、平和への関心は幼い頃から根っこの部分になっていると想っていたが、大叔父の奥様は沖縄出身の方だったし、広島では沖縄出身の知人が大活躍中の頃を目の当たりに出来たという環境にいながら、沖縄の事情を捉えきっていない自分の生半可さを、空路を旅して来られた研修生との出会いをとおして認識させられていたのである。この上なく、言い尽くし難く尊い出会いと教示に感謝しつつ、これからもまだしばらくは続くのであろう我が旅のための貴重な教訓と心得、自分自身にも言い聴かせ、人類が国境を超えて互いを愛し合える平和を願い祈り続けたい。

深謝

2014年(平成26年度)女性のための生涯塾 毎月第2土曜日

添付年表

01月11日

 

02月08日

7日 北方領土の日(1980)

03月08日

7日 (定例3月第1金曜日)世界女性デー・世界平和を祈る日(1887)
11日 東日本大震災慰霊祭(2011)

04月12日

 

05月10日

5日 児童福祉週間(1948)
15日 沖縄本土復帰記念日(1972)

06月14日

20日 国連難民の日(2000)
23日 沖縄慰霊の日(1974)

07月12日

 

08月09日

6日 広島市原爆死没者慰霊式及び平和祈念式(1947)
9日 長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典(1946)

09月13日

2日 降伏文書調印・終戦の日(1945)

10月11日

1日 法の日(1960)
3日 日本国憲法公布(1946)

11月08日

 

12月13日

4〜10日 国内人権週間(1949)
10日 国連世界人権宣言(1948)
10日 国連人権デー(1950)

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フランクルの「精神の次元」を理解することに寄せて

- 改めて、富吉建周教授に応えて

安井 猛(PhD)

『言葉と沈黙と』7号に富吉建周先生の、とりわけロゴセラピーにおける宗教性に関する彼の疑念についての文章が掲載された。先生によると、ヴィクトール・フランクルの「精神の次元」は先生の「神と人間の原関係」あるいは「凡仏一体」という信仰告白とどのような関係になるのかという問いを提出された。フランクルのいわゆる精神的次元の一つの構成要素となるものの中に「宗教性」が挙げられるが、それは富吉先生によると「神と人間の原関係」とか「凡仏一体」という究極的な信仰を収めるためには不十分な概念だと思われるからだ。「神の人間の原関係」はキリスト教徒の信仰内容を、「凡仏一体」は特に禅仏教徒の自覚を言い表す言葉だが、これら二つの経験はフランクルの言う精神の次元に押し込めるには大きすぎるから、精神の次元の上位に、それとは一段高い第四番目の次元を想定する必要があるのではないか。その次元は、究極者(神あるいは仏)の客観的存在を収容しきるのでなければならない。この次元をフランクルの精神の次元の中に押し込もうとすれば、それは「曖昧な」次元となってしまう。このように、冨吉教授は精神の次元の上位に位置すべき第四の次元をはっきりと要請すると言いうのではないけれども、それは明白に彼の思考の線上にあるといえる。「宗教性」という概念では客観的に存在する神を、客観的に存在する凡仏一体の仏を収納できない。それ故に、神の次元としての、仏の次元としての第四の次元、つまり身体の次元、こころの次元、精神の次元という三つの次元のほかにそれらの次元を統一するものとしての神(あるいは仏)の次元と言うことになる。三つの次元から成り立つ人間と、一方、そのような三元の統一体を可能にするおおいなる神(あるいは仏)の次元があることになる。フランクルはまだそこまで行かないで、人間の精神の次元にとどまるので、結局のところ精神の次元の描写は「曖昧」のままにとどまっている。富吉先生はフランクルをこのように批判し、フランクルの考え方に何ものも加えない私にも批判を向ける。

私個人としては心理療法家が神(あるいは仏)を語ることについて異存はない。ロゴセラピストの中にも様々な意味を探索する途上で神の問題へ突き当たると語る人々を知っている。クルツ教授も人間像を構築する際にこのことを示唆し、私もロゴセラピスト教育研修において受講生にこのことを指摘した。良心という「意味の器官」が話題となるとき神の問題がついてくる。しかし、フランクルはこのことを彼の主要関心としなかった。これはフランクルが精神の次元の構成要素を列挙する際にも現れている。ヨルク・リーマイヤーはドイツ・ロゴセラピー&実存分析協会の学問的顧問であるが、精神の次元について次のように書いている。

「この次元にはとりわけ次のような人間に固有な出来事が属する: 事柄へのそして芸術上の興味、創造性、宗教性および倫理的感性(「良心」)、自由な決定、愛、自己超越、自由、責任、態度すること、価値および意味の方向づけ、希望、世の中への開け、感動、職業倫理等」。

リーマイヤーはここで精神の次元に問題となるのは「人間に固有な出来事」(spezifisch menschliche Vorgaenge)であるとしている。その中に「宗教性」が出てきて、それは「倫理的感性」すなわち「良心」と結びつけられる。他に列挙されている出来事もすべて「人間に固有な出来事」であって神(あるいは仏)に固有な出来事が問題にされているのではない。すなわち、精神の次元はどこまでも人間の次元である。この次元はこころの次元と身体の次元とが結びつき、こころの次元と身体の次元の統一を可能にしかつこの統一体をその存在理由としての精神の次元へと結びつけると言われる。ここで問題になる三つの次元は一つの閉ざされた、完結した全体であるので、富吉先生はフランクルがもともと意図していないことを、彼から要求していることになる。富吉教授は、フランクルが神あるいは仏の次元を精神の次元の中に入れていることについて、それでは不足だと言うのである。フランクルそしてロゴセラピストはクライエントのために「神と人間の原関係」あるいは「原事実」を議論できるようなフォーラムを用意すべきと冨吉先生は言う。しかし、フランクルは「精神の次元」の「人間の固有な出来事」を手掛かりとして、ある特殊な人間すなわち実存がその総体において現れそして世界と出会うユニークな仕方を解明する。これがフランクルの言う「実存分析」に他ならない。ある者は意味欲求が満たされず、実存的空虚の中にいる。別の者は意味を探求し意味を発見しそして意味を実現する。彼は良心という「意味の器官」を通して「超意味」を表現する。これは「神と人との原関係」という理論をまたなければ「曖昧」であり、「曖昧」のままにとどまるというものではない。それはすでにそれ自身で明晰であり、究極のことなのである。

おわり

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ひとりぶつくさ - 6 - 随伴のとき…

やすいうゐこ

確執や習慣に無意識のうちに囚われて、一向に前に進めない、変化を来さない、課題山積みの毎日に生きにくさを感じ、それがなぜそうなのか解らないまま不満は膨れる、それでも時はそのまま流れ…壁は厚くなる。ドウシタライインダロウ。誰もが経験することだからそれで良い、のではなくて、解決策のない状態の時こそ、物質的な富よりも精神的な強靭さが必需であろうと思う。

今、私たちは、過去と未来との狭間、歴史の真ん中で生きています。このことは、何も考えないで過去と同じ過失を繰り返して好いということではなくて、後ずさりしないで唯、前へ歩を進める、今まで以上に生き易い方法を見つけ出すための知恵を身に着けるということが含まれているのではないかとも思います。

旧い生活習慣から脱皮して、工夫をして、知恵を絞って、少しでも有意義に少しでも生き易く成る工夫をする。共存を可能にするための知恵を持つ。そのためには自分の命が今ここに在ること、在る命はいつか消える現実であることとも併せての意味を探求し続ける。 考え続ける。他人の思惑や批判や虐めを懼れないで探り続ける。意思表示できる剛く深い度量が丹田に居座るような自分自身に教育しなおす、ということも必需になってきます。

人の知恵では計り知れない信頼と確信に因る明確な使命感。気儘に楽な毎日が善い事だと思い込んでいる方々には想像もできないような人生観がそこには在ります…。

心身の瞑想や生活の中での試行錯誤を繰り返しながら辿りつける或る一点、深淵の力を蓄え、自分の為のみならず、人の為にも知恵を尽くし、時には揺るがぬ信頼と確信に因る懼れのない健全で強靭な意志を発揮する。それが人間イエスの、彼にとっては自然な生き方であったのではなかろうかと思わせられるのです。

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あとがき

§ 7号まで寄稿くださった皆様にはご無沙汰をしております。いかがお過ごしですか。この度は、研修生のみの原稿で埋めました。学者の論文は、資本が整い次第出す予定です。

§ エジプトの政乱は治まらず、ガザでまた悲惨な戦争、ウクライナでの飛行機爆破以来飛行機事故多発。国内では原発再稼働ありき、戦争の準備は着々の政府と首相官邸。法人減税対策の本当の目的は何?福祉も少子化対策も行き詰まり、女性陣起用は政府の策略?

§ 人々は第二、第三の人生を目指す。仕事環境に変化が起こっている。変化に応ずるため自分を変えていく。変化の起創者あるいはエージェントとなる、これも時のしるし。

§ 「オープンザ研究所」と「ワンコインブランチ」が開設されています。興味おありの方はお越しください。詳細は、ホームページの「対話の広場」をご覧ください。 …takeshi yasui

§ 研修生、生涯塾の皆さん、弊研究所の行事に連なる方々からのご寄稿に感謝。時のしるしをテーマにした稿想は生きている証しを力強く発信しています。読後の感想も愉しみです。

§ 今号の挿絵はヒルマ・アフ・クリント(1862〜1944)スウェーデンの女性画家、神秘主義者の抽象画です。2013年6月頃から10月迄ハンブルク駅の向かい側に在る美術館で展示会があったという記事を読んだのがきっかけで、クリントという名前を初めて知りました。早くに妹と死別し、絵も絵画の学校を出たのちには次第に神秘主義的になっていったそうです。生涯を独身で通し、水彩画はよく売れたので食べるために描き、好きな抽象画はずっと描きためていたそうです。細かな幾何学的計算と優しい線が美しさを引きたてます。色合いまでが現代にも喜ばれそうです。原画の多くは縦3mx横2mです。

§ 毎月第2土曜日は 弊研究所主催の女性のための生涯塾です。14:00から瞑想と気功。15:00からテーマに沿って話し合う時間です。これまでの人間学とロゴセラピーのテーマは終わりました。8月からは新聞の記事で解らない事柄を題材に話し合います。興味のある方、どなたでも歓迎です。参加費1回¥5,000,‐前もってお振込下さい。

§ カウンセリング・メンタリングをご希望の方へ。弊研究所のプランの関係上、2〜3週間お待ちいただくこともありますので、お早目にお申込み下さるようお願い致します。

§ 嵐とカラ梅雨との狭間で薫風には程遠い日々が続いています。弊誌言葉と沈黙と の読者の皆様もくれぐれご慈愛ください。 …uiko yasui

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言葉と沈黙と

【単価】
税込 ¥1080,−

【発行者】
安井 猛 (PhD)大学教授
日本ロゴセラピー&実存分析研究所・仙台 研究所所長
ドイツ国一般社団法人ドイツロゴセラピー&実存分析協会(DGLE)認定ロゴセラピスト
ドイツプロテスタント教会・ヘッセンナッサウ(EKHN)認定パストラルケアラー

【住所】
〒980-0014 宮城県仙台市青葉区本町1-13-32(株)オーロラビル605

【ファックスのみ受付】
022-707-4582

【お尋ねはこちらへ】
info@logotherapie-japan.net

【JILEXオフィス】
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