言葉と沈黙と 第5号

2013年1月

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読者の皆様へ

寒さは厳しいですが、なんとはなしに春が近づきつつあるという感じは致します。
皆様、元気にお過ごしのことでしょうか。

いつもとは幾分違った体裁の便りをお届け致します。娘が先回の30頁を超えるニュースレターを見て、ニュースレターとはせいぜい3、4頁の催し物の日程だけを載せたレターのことなのよといいましたので、なるほどそうだな、と思い今回からはこの程度のボリュームにし、「ニュースレター」という題を変えました。

今号の表紙は私のドイツの母校マインツ大学西洋史学研究所のそばにあるマインツァー・ドームの見える旧市街の絵の写しです。マインツ大学には6年滞在し、勉学に励みました。様々な問題についてああでもない、こうでもないと考えながらこの道を歩いたのを思い出します。絵はドームの近くの土産屋から当時の5千円ほどで購入しました。その町の画家がパンを得るために描いたのでしょう。私にはいまも貴重な宝物です。

このページの絵は冊子の表紙です。それは私のドイツ時代、ドイツ市民のために書いた隔月通信で1991年2月から1997年秋、私の離独まで続きました。誰から頼まれたわけでもなく人々に配送した通信です。この通信シリーズの何部かがマールブルク大学の神学部の教材となっているそうです。冊子タイトルは「Wort und Schweigen(言葉と沈黙と)」というもので、それを現在のタイトルとして使うことにしました。この度の通信の号数は第5号です。

皆様から「いまの日本とわたし」というお題でお便りを戴きました。皆様の生活が反映されていることを思い、有難いと感謝しております。この度の通信の写真は世界からの宗教美術です。2カ月間の研修から妻が持ち帰ったものを使っております。昨年10月末の私自身の研修と12月からは妻の研修とが続き、この『言葉と沈黙と』五号はこれまでの刊行リズムからはずれておりますことを御容赦下さい。
妻と私の仕事は皆様の友情と熱意に支えられていることを覚えて、心から感謝を申し上げます。

安井 猛

東日本大震災二周年記念後の課題について

安井 猛

「元気を取り戻そう会」は震災後の仙台とその周辺の変化を追ってきた。復興は国と県と市の行政に負うが、行政の考えることは国と企業の利益であって国民の利益ではない。マスコミはその肩棒を担ぐ。被災地の市民は強くなって自分の生活を確保する以外にはないし、そう努力をする市民が増大しつつあるかもしれない。他方、被災地から避難生活を送る人々の一部は心労の故に自殺する、心身の限界に突き当たり、苦しむ人々もいる。苦境から脱出しようと努め、自己改造に励む人々がいる。誰にとっても、毎日が被災地の人々には正念場である。他の地方の人々もこの認識を共有してくれれればよいと思う。

憎しみと戦争がある。戦争で利益を得るあるいは戦争で利益を得ようとする国々がある。ことし三月一日、日本政府は武器輸出三原則を骨抜きにする宣言をした。報道によると、この三原則は一九六七年に閣議決定されたが、その後の内閣は例外拡大の程度を拡大し、五つ目の現内閣は例外拡大の程度の拡大を更新し、かつ、基本理念の変更も行った。それは「国際紛争の助長回避」から「国連憲章の遵守」への移行に関わる。すなわち、「国際紛争の助長回避」に関連して、日本国の歴史の誤りの認識と反省、それにもとづく自国の特殊性と独自性の認識を「国連憲章の遵守」を盾に放棄するに至った。

イスラエルの現大統領、シモン・ペレスが「完全な平和と愛はこの世界にはない。大事なことは対話を続けることだ」といったことは記憶に新しい。日本国民はこの意味の対話能力があるかどうか、そもそも対話能力はどこから来、どの程度身につけられるか。このことは深刻な問いだが、その問いをその都度処理して日本国の独自性を護りつつ、この世にはないと思われる「平和と愛」を追うことを改めて決意するかわりに、そうする機会を自ら放棄したのである。それを自覚の外に置いたのである。このことに関して私は無力感を覚える。しかし、この世にないものこそ、この世から締め出されているものこそが、この世の人間のこころに平和と愛を産むことができるのだ。だからこの世にないものをこの世に生きている人間のこころに迎え入れる用意をする必要がある。これは政治の事柄でもあるのだ。そうでなければ人間の行動を決定するための対話の機会は公のこととして担保されなくなる。良心は私たちの生活の中に働けなくなる。良心に基づいて決定する人間を排除することになる。それは繰り返し日本の歴史を意識しながら過去から学ぶ機会を政治的に排除することに繋がるので、私は言及された「移行」に危惧を抱いている。

いま私は私たちの研究所の存在理由を与えてくれたヴィクトール・フランクル先生のことを考えている。もう五、六年前になるが、私にロゴセラピーの手ほどきをしてくれたクルツ先生に案内されてフランクル先生の奥さまの自宅を訪れたことをキッカケにウィーンのシナゴーグ付属の施設を訪れた。同時に、クルツ先生からフランクル先生のウィーンのユダヤ人シナゴーグとの関わりについての言葉を聴く機会に恵まれた。フランクル先生は必ずしもユダヤ人シナゴーグとよい関わりを持っているとは言えなかった。シナゴーグはウイーンの名誉市民であったフランクル先生が逝去されたとき、このことを一顧だにしなかったという。理由は、先生がドイツ人のユダヤ人迫害に関してナチスドイツの集団的罪責を問えないとしたことにあると言う。彼が強制収容所で経験したドイツ人の中に良い人もいた。被収容者としてのユダヤ人の中には悪い人もいた。良い人、悪い人の区別はフランクルによると集団への帰属性による区別とは別であり、もっとも厳密な意味で個人の自由と責任の事柄だとした。この考え方が反ユダヤ主義であるとしてユダヤ人シナゴーグがフランクルから距離を取る理由だった。フランクル先生は最後まで集団的罪責は存在しえないという彼の主張に留まった。彼自身はユダヤ教を捨てることはなく、終生、毎朝三十分はユダヤ教の祈りの儀式を実践したことは周知である。

フランクルは人間の善悪を意味実現との関連において考えた。意味とは彼にとり一回限りの、代替え不可能な状況における意味のことである。人間の良心とは状況の意味を感知する器官である。それゆえ、彼の心理療法は、他の心理療法の学派と比べて強く倫理的性格を持つ。先に、私はシモン・ペレス大統領は対話の重要性を強調したと言ったが、それはどこまでも良心に裏づけられ、それに耳傾ける対話であらざるを得ないだろう。良心は精神的次元の要素である。武器輸出と大震災からの復興は政治家の頭の中では結びついている。復興のための巨額のカネはどこかから調達しなければならない。戦争と軍需産業を起こし、武器を売りさばき、利益が復興資金や景気回復の資本に化ける。この意味で復興と武器売買の規則の変更は結びつく。ロゴセラピーの観点からすれば、国際的政治も大震災からの復興も良心に裏づけられた仕事、価値に結びつき価値実現の結果として意味深くなければならない。一所懸命働けば働くほど精神的にも報われ、幸福感を味わえなければならない。質素でも意味に満たされた生活は尊い。

大震災後二年、各自、どのように暮らしてきたかに思いを馳せるだろう。反省もするかもしれない。これは各自のことである。各自が決めること、各自の作業である。考えてみて、これからの生き方、果たすべき課題に思い至るかもしれない。人によっては、自分の現在を測る座標軸が見えにくくて、これからの見通しがつかないかもしれない。家族関係、結婚、仕事、健康、病、高齢、死など、また土地や家屋の修理などカネの問題があるかもしれない。比較的目に見えやすい事柄について、こうすれば、ああすればよいという気づきがあるかもしれない。しかしまた、社会生活が一応整っているけれどもどこか虚脱感がつきまとう、生きることと死ぬことが、また、こころのこととからだことがバラバラになるのを感じるかもしれない。何をどうしてよいか分からないということがあるかもしれない。あるいはまた、人によっては自覚を深める、共感力を使う、自分を制御する、他人を動機づける、社会的スキルを使う。このようなことがますますよくできて喜ぶかもしれない。自分は良い人間で、生きることは捨てたものじゃないと納得がいく。どのような具体的課題が見えてくるにしても、このような能力に裏づけられた生き方ができる人が多ければ多い方がよいと思う。

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苦しみの意味と日本人

芝田 豊彦
関西大学文学部総合人文学科ドイツ学専修

ラピーデとの対談集で、フランクルは詩篇56章8節を引用している。フランクルの著作においても詩篇のこの箇所が引用されているはずだと思っていたが、『心理療法と実存主義』で、妻子をアウシュビッツで失ったラビに対してフランクルが語った言葉のなかに偶然見つけた。フランクルはラビに次のように語っている。「詩篇〔56章8節〕には、神はあなたのすべての涙を保存する、と書かれているのではないでしょうか? ですから、おそらくあなたの苦しみはむだではなかったのです」。聖書注解書によれば、神に従い通して「生命の書」に記されるのが一般的であり、この詩篇の箇所のように、苦しみや涙が「生命の書」に保存され記録されるという表象はめずらしい。

ところで、「苦しみにも意味がある」というフランクルの主張は誤解されやすい。苦しみによってはじめて意味が見出されるというのではない。むしろ、苦しみにもかかわらず意味は見出されるのである。したがって、取り除くことのできる苦しみは取り除かなければならない。しかし人生には避けることのできない運命的な苦しみもある。ロゴセラピーでは、そのような苦しみが問題にされるのである。

人間は苦しみを通して成長するとは、世間でもよく言われることである。フランクル自身も次のように言っている。「意味をみたすことにおいて、人間はみずからを実現する。われわれが苦しみの意味を満たすならば、われわれは人間における最も人間的なものを実現し、成熟し、成長するのであり、われわれ自身を越えて成長するのである」("Der Mensch vor der Frage nach dem Sinn")。しかし上のラビのような運命的な苦しみにおいては、「成熟」とか「成長」とかいうようなきれいごとを言っておれないのではないか。たしかにそうである、もし「成熟」とか「成長」が、閉じられた人生ないし世界のうちから見られたものであるならば。しかしよく考えれば、「成熟」とか「成長」とかいうことも、究極的には、人生や世界を越える視点からのみ言い得るのではなかろうか。

運命的な苦しみにおいて、その苦しみの意味をわれわれは知的には理解できない。そのような苦しみは、この世を越えた意味、フランクルの言葉を用いれば、「超意味」を指し示しているからである。上のラビのように、苦しみに超越的な意味があることをおさえる時にのみ、人は運命的な苦しみに耐えることができるのではなかろうか。それを「成熟」ないし「成長」と呼ぶべきかどうか私には分からないが、すくなくとも苦しみに対するわれわれの態度は変わるであろう。

運命的な苦しみの意味は、われわれを宗教的な領域に導く。しかしその際、やはり「宗教的」ということと「宗派的」ということを区別したいのである。現代日本において苦しみの意味を考える場合に、神谷美恵子のつぎのような言葉がヒントを与えてくれるのではなかろうか。「私のみるところでは、宗教的な次元をぬきにしては苦悩の中にあってもなお人間が人間らしくありえないのではないかと思えるのだが、さりとて特定の宗教の形式にこだわる気にはなれない。むしろ、日本のようなところでは、みんなの心に眠るそぼくな宗教心の最大公約数のようなものをとり出して、自然科学をも包みこめるような現代的世界観をきずきあげるほうが自然なのではなかろうか」(『人間を見つめて』259頁)。手放しで賛同するつもりはないが、やはり傾聴すべき発言ではなかろうか。無神論者をも対象としなければならないロゴセラピーの立場も、「神信仰」ではなく「意味信仰」なのである。

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森有正の「日本語・日本人論」について

廣岡 義之
兵庫大学健康科学部健康システム学科教授

「日本と私」というテーマが安井猛先生から与えられましたので、最近、研究している森有正の思想の中から特に『経験と思想』(岩波書店)で主張されている日本と西欧の思想の相違点について、少し述べてみることにします。紙幅の関係から、森有正が指摘する日本特有の「二項関係」の問題点について考えてみたいと思います。人と人の結びつきにおいて、人間の心情にとって自然なのは、お互いが「相手にとっての汝」すなわち「二人称」であろうとする「汝-汝の二項的な親密性」に基づくあり方ですが、この「二項関係」は原則として、相手以外の他人が参与することを拒み、相手を無私の者として、自分のうちに直接的に受け入れることを要求します。換言すると、「汝-汝」という、現実と比較して抽象的な関係が、共同体全体に葡萄の房のように集合したものが、日本語の「ことば」の中に「嵌入」(かんにゅう)して来ると言います。そこでは、一人称・二人称・三人称が本来の本質的硬さをもっておらず、文章の主格が何人称であろうとも、日本語の動詞の形は「のっぺらぼう」で同一であると森は鋭く指摘するのです。この点に該当する森有正の日本語論は、「行く」「来る」「見る」を、他のフランス語やドイツ語などと比較する箇所で、最高潮に達することになります。

たとえばドイツ語の動詞は、Ich gehe , er/sie geht, Sie gehen, と各人称において異なった語尾の形をとります。ラテン語もギリシア語も同様に、全ての人称によって異なった動詞の形をとるのですが、ここで「私が行く」ことと「彼・彼女が行く」「あなたが行く」こととは実存的に意味が全く異なる、と森有正は考えました。ところが日本語の動詞の場合、全て「私は行く」「あなたは行く」「彼・彼女は行く」となり、相違するのは主格だけとなり、「だれ」が「行こうが」実存的な意味において大差はないというのが森の解釈なのです。日本語には日本の社会的な現実というものがそのまま「言葉」のなかに「嵌入」してくるという主張をするのです。これは日本語の敬語法等の用例をみても容易に推察できますが、ここでは取り上げることはでません。いずれにせよ、この日本語固有の特質は、良くも悪くも「汝-汝」の関係で全体が覆われており、皮肉なことにこの領域内のときだけ、日本人はいきいきと活動していると森有正は指摘しています。その結果、一人称が独立し、従って三人称が実在する本当の意味での「社会」を、日本では形成しにくいという問題を孕むことになるのです。筆者はここに「日本人が主体的に生きる」等の実存的生を我が事として構築しにくい原因の一端を垣間見る思いに至ります。

森有正の指摘する日本特有の<汝-汝>の関係は、仲間うちに微温的な雰囲気を生み、その内側では相通じる意志の交流が存するものの、一歩外に出ると、外部の他者は未知のものとして不安を感じ、意志の疎通が不可能となります。他方、西欧では「一人称」と「三人称」の関係が自明の前提として「社会」が成立しており、こうした日本独特の<汝-汝>の二項関係が跋扈(ばっこ)した人間関係にあっては、本来的・本質的な「社会」は成立しない、と森有正は考えたのです。「二項」を相互に複雑に多角的にしかも極めて閉鎖的に結びあう結末はどのようなものになるのでしょうか。極論すれば、それは根本的には「社会」あるいは「社会性」の否定を意味することになります。日本人の人間関係や言葉の使用は「社会」の否定の危険性を孕んでいる、という森有正の予言的憂慮は、まさに二一世紀に入った今日の社会でますます現実味を帯びてきていると思います。

これは、現代日本社会における「教育的責任」の希薄化を裏付ける説得力のある考え方であると同時に、教育学が今後、真剣に解決に向って取り組むべき焦眉の課題となるべきでしょう。なぜなら、今日ほど、「自己責任」という考え方が浸透している一方、責任の所在が不明確になる風潮が広がるなかで、真の教育的責任とは何かという根本的議論が教育界でも深まっていないのが現状であるように筆者には感じられるからです。

最後に、誤解のないように一言つけ加えますと、筆者は日本人のすばらしさ(大震災のときでも人間的規範意識や道徳性を保持できた等)や、日本語の美しさ・論理性を否定しているわけではありません。それはそれで高く評価したうえで、別の問題点として、特に日本人(西欧でも多少二項関係は存在すると森有正は指摘している)はこうした二項関係に陥りやすいので、意識して、より開かれた社会をめざすべきではないかと小論で主張したかったのです。共々に、主体性のある実存的生き方のできる自分、あるいは子どもたちを育てていきたいものです。

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方向指示は意思表示

今井 誠二
尚絅学院大学 総合人間科学部人間心理学科 准教授
特定非営利活動法人 仙台夜まわりグループ 理事長
バプテスト仙台南キリスト教会 牧師

自分の病気や怪我、ましてや事故のことをひけらかすのは、それを武勲にして売り物にしているようで余り好きではありませんが、昨年秋、単車で走行中に、事前に方向指示をせずにいきなり右折し始めた左前方の先行車両に巻き込まれ、回避しようとして接触して転倒し、膝靭帯を損傷しました。現在リハビリ中の身です。

「馬に蹴られるのは馬が悪いのではない、馬は蹴るものだ。馬の後ろに立たなければ、蹴られることもない」とソークラテースかキケロが言っていたのを記憶しています。彼らに言わせれば、ウインカーを事前に出さない車両が悪いのではない、事前に方向指示をしないで曲がってくる車を予測しながら走れば良いのだ、ということになるでしょう。しかし、今回は方向指示をしないで曲がってくるかもしれないことを予測しながら走っていたにもかかわらず起きた事故でした。もっとも、事故というのは片方だけの過失では起こりません。今回も、私が中央線寄りを走行していたということで、自分側の過失比が一割上がってしまいました。

交通量に比して車線が少なくて狭く、右左折時に方向指示を前もってしなければ、直ちに事故が起きてしまうような大都市から、車線にかなり余裕があり、取り締まられない限り、方向指示を事前にしなくても大差ない中都市に出て来て16年になり、つくづく思うのですが、交通ルールというのは、グローバルなもので、場所によって異なっては困るのです。道路は世界中につながっており、外から来た人も、そこで育った人も同じようにして、走る機会があるからです。

このような小さな媒体ですが、この際、独り言ではなく、声を大にして申し上げたい。進行方向事前指示は、グローバルなルールです。「前もって出さなきゃ、ウインカーは意味が無い!」

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日本と私

臨床心理士
小林 真紀(旧姓 谷村)

宇宙を感じると自分はとてもちっぽけに思える。最近まで「SPACEBALL(スペースボール)」というイベントが東京で開催されていた。それは宇宙旅行を体験できるという新しいプラネタリウムのようであった。そのホームページには「地球を見つめることは、今を生きる奇跡を知ること」と記されてあった。とても印象深い言葉だった。その奇跡を息子にも歩んでもらいたいと心から願ってやまない。また、ちっぽけとは思うが、それはちっぽけな存在というわけではない。ニュースでは、悲惨な事件が流れる。日本は、安全な国だとつくづく思う。しかし、その中でも悲しい出来事は日々、起きている。命の重みを痛切に感じる。

自分が日本人で、日本に生活し、今の地域にいることが当たり前のことのように暮らしてきた。ところが、集団生活をする中で、そのような人たちばかりではないということに気づかされる。家族環境や生活環境によって価値観も暮らし方も生き方までも違ってくる。それは、同じ家族の中で育った兄弟間でも違いが表れてくるだろう。日本は、私の輪郭であり、図にも地にもなり得ると思う、そして、守られ、守る感覚がそこにはある。日本を超えて世界に目を向けた時、日本人としての誇りをさらに強く感じるのではないだろうか。

日本は四季折々の素晴らしい景色を目にすることができる。それらを味わう中で、日本独特の感性も磨かれていくのだろうと思う。そうしたことも、幼少時代からの積み重ねにより、自分を彩っていると思う。

3.11の震災の時は、助け合いながら生き延びる方法を見いだそうとする協調性や我慢、粘り強さ、冷静さといった日本の国民性が世界中から注目を集めた。私達が身につけてきたものを結集させた時、大きな力となり絆を築いた。そこに称賛の声が上がった。私達にとっては自然なことであったが、そのことで、改めて日本の国民性について気づかされた。

そのような、守り抜きたい日本国民としての素晴らしい部分を継承し、自分らしさを大切にしながらも、相手を思いやる心を忘れないようにしていきたい。井の中の蛙にならないように、周りを見ることも大切と思う。それには、自分を知り、相手を知ろうとすることからはじまるのだろう。世界に目を向け、日本、そして自分を見据えられるようでありたいと思う。

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日本と(インドと)私

草野 智洋
静岡福祉大学社会福祉学部
専任講師

"日本と私"というお題をいただきましたが、日本について語るためには日本以外の国と比較するのが良いのではないかと思い、私のインドでの思い出について紹介させていただきます。私は現在は大学院の博士課程を修了して大学の教員をしておりますが、もとは大学を卒業して一般企業に勤めていました。新卒で就職した会社にうまく適応できず3年と経たずに退職し、私はインドに行きました。いわゆる"自分探しの旅"というやつです。

インドでは、何から何まで日本ではあり得ないことの連続でした。まず、物に決まった値段というものがありません。何をするにも交渉が必要です。お人よしの日本人だった私は、当初は愛想笑いを浮かべて「イエス、イエス」と言うことしかできませんでしたが、はっきりと自分の意見を伝えなければ何もできないことがわかりました。ときには、日本では考えられないような理不尽な目にあうこともありました。日本ではほとんどしたことがなかった"相手に対して本気で怒る"ということも経験しました。

しかし、もちろん嫌なことばかりではありません。本気になって怒ったり、腹の底から笑ったり、心から感動したり。プラスの感情もマイナスの感情も、日本にいたときよりもはるかに濃密に味わうことができました。日本社会で生きているうちに知らず知らず身につけていた私の仮面は、インドでボロボロと剥がれていきました。少し大げさかもしれませんが、そこで私は"全ての飾りが取り払われた本当の自分自身"と出会うことができたのかもしれません。

さて、ロゴセラピーでは、個人が"自分の良心に基づく決断"を重ねていくことが重視されます。この話をするとき、私はいつも学生たちに「間違えないでね。良心と欲望は違いますよ。」ということを言います。自己を中心とした観点に立ち、自分のやりたい事だけをやっていくら欲望を満たすことができても、意味を見つけることはできません。そこには"自分以外の誰かや何かのために"という観点が必要なのです。ところが、現代の大学生にはこの注意はあまり必要ないようです。なぜなら、彼らの多くは"自分の欲望のために他人を押しのけて生きる"なんていう生き方ははじめからしていないからです。

そこで私はこうも言います。「間違えないでね。自分の良心に従うことと、他人の期待や場の空気に合わせることとは違うんですよ。」と。この注意は大切なようです。多くの若者は、小さな頃から親や先生の言うことをよく聞き、友達と話を合わせ、本当は嫌でも人から頼まれたことは断らず、という生き方をしてきています。この生き方は自己中心ではなく他者中心ですから、ロゴセラピーで推奨される自己超越的な生き方と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。"自分以外の誰かや何かのために"ということと、"本当の自分を蔑ろにして他人に合わせる"ということは全く別のことです。

かく言う私も、このことを本当の意味で理解できたのはインドでの体験があったからです。自己犠牲や滅私奉公というのは日本の伝統的美徳でもありますが、もしも周囲の期待に合わせて自分を演じることに疲れてしまったら、日本とは全く違う価値観の世界に飛び込んでみてはいかがでしょう。とはいえ、羽目を外しすぎて今度は"自己中心"にならないように気をつけてくださいね。

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日本と私(国家としての強さと、個人の優しさ)

中村 完治

震災後2ヶ月経った頃、東京でキリスト教会の牧師に、ホームレスの人が「以前と違って、道で会う人たちが声をかけてくれたり、おにぎりや洋服の差し入れをしてくれる」と、あまりの優しさに、不思議がっていたとの話を聞いた。5年前、私が東京で単身赴任していた際、日本橋の得意先を訪問しようと証券取引所脇の橋を通りかかったことがある。歩道にダンボールを敷き布団に寝ていたホームレスがいた。その上は高速道路で雨を凌ぐのには格好の場所だ。得意先に着き、目にした大都会での異様さを話したが反応はなかった。

何故、彼がホームレスになってしまったのかは解らない。大企業の会社員でもリストラは身近になっており、経営者にしても倒産すれば投げ出される。多くの人が「明日は我が身」との危機感を持っているはずだ。そんな彼らに無関心のそぶりを見せていた東京も、震災によってホームレス自身、何があったのかと不思議がる程優しくなったのだ。

日本人は本当に心優しい民族だと思う。大陸から争いを嫌った人間が、この島国に追いやられて来たからだとの説もあるが、それに加えて列島は自然災害が多く、発生する度に優しくさせているのだろう。今回の大震災はマグニチュードでいえば千年に一度かもしれない。しかし死者不明者1.9万人のほとんどが津波被害だ。その観点から近年の三陸津波被害状況を見てみると、1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波、1960年のチリ津波に2011年の今回の津波、それぞれの最高波高と死者不明者は、38mの2.2万人、28mの3千人、8mの142人、40mの1.9万人となる。今回は、防潮堤の普及も進み、チリ津波での死者数が少なかったことも油断となり甚大な被害をもたらした。約40年程に一度の三陸津波だが、1923年の関東大震災でも津波は鎌倉・伊豆・房総で最高波12mになり1万人(震災全体では10.5万人)の命を亡くしている。

これ以外にも、噴火、洪水、冷害による飢饉などの自然災害により、日本では近隣同士が助け合わないと生きてゆけない構造になっているため、競争しつつも優しさが潜む原点があるのだと思う。しかし、国家統治としては優しさでは成り立たない。先の鳩山政権の時には普天間問題で国家ビジョンのあいまいさを露呈させてしまい、危うく日本国土が分断される危険性があった。根拠もなく「最低でも県外」と沖縄に優しさを見せたが、それが同盟国のアメリカを怒らせ、中国と分けあってしまおうとの考がアメリカの一部にあったからだ。しかし、大震災がありトモダチ作戦でとりあえず救われた。今後の修復は容易ではないが。国家としては優しさでは統治できない、他国に隙を見せない強さが無いと。

国家を基本としない市民社会などはありえない。国の統治をしっかり固めた一方で、個人としての精神は主義やイデオロギーにとらわれることなく、世界の問題を理解した上で、懸案事項を解決してゆかないと、戦争や争いを終わらすことは不可能だ。度重なる自然災害により自然に培われた優しさを、海外の人との関係を産業などを通じ積極的に図り浸透させることができれば、多くの犠牲者を出し続けてきた災害も大きな意味を持つことになり、それを後押しするのが私たち団塊の生きた者の役割でもある。

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今の日本とわたし

千葉 幸恵
会社員

今回のテーマから私は、最近仕事を通して考えたことを書きたいと思います。
しばらく前のことになりますが、ある一人の女性起業家を取り上げた番組を見ました。会社勤めをしていた彼女は、育休明けを控え保育所の手続きをしますが空きは無く、その時に担当者が言った言葉は「子供は2月頃に産むのが常識」という主旨の言葉だったそうです。小学校入学や進級などにより空きが出る4月の年度切り替えに合わせて出産をする、と言う意味です。彼女はこの強烈な体験が契機となり働くお母さんをサポートする会社を起業します。

ここ仙台でも保育所の数が足りないとは聞いていましたが、私の職場において昨年、出産をした同僚2名が復職にあたり入所申請をしましたが両名とも待機児童となり、いくつかの調整を経て3月迄は身内に子供を託しての復職となりました。世の中の矛盾を出産した彼女達が自分で解消せざるを得ないこの状況を目の当たりにし、私は女性が働き続けること、職業を全うするということについて考え始めました。

育児介護休業法が制定され、近年はワークライフバランス、ダイバーシティマネジメントと新しい働き方の推奨と模索が始まりました。今はまだ仕事のやり方がこれまでと変わらない組織の中で、制度を利用することに対して一定の理解を示す同僚による工夫と努力に支えられているのが現状です。また、このやり方には限界があり別な弊害も生じているように思います。

一方で私が出産をした20数年前と比べると、世の中の変化も見ることができます。当時は一部の先進的な会社を除いて育休制度は無く、産後8週間で復職をしました。結婚・出産を機に辞める人がほとんどでした。また子連れでハローワークに行くと働く気が無いと見なされたものでしたが、今では子供が遊ぶスペースが確保された相談室が設けられるようになりました。こうして育休をとり女性が仕事を続けることが前提の時代がきたことは、本当に喜ばしいことだと思います。

国際機関などの日本人女性の地位や女性の扱いについての提言から、世界の考え方は日本とは異なる視点で開かれ進んでいることを伺い知ることができます。この身近な保育所の問題ひとつにも、提言の当事者は私達自身だと考えさせられます。

疎かにしたくない人生の大切な時期の一つである育児や介護について、それが当たり前となるような意識の変化が訪れ、世の中に浸透するにはもう一世代くらい必要なのかな…と、子供の発熱で休暇をとる若い男性社員を見ていて思います。

性差や女性同士の世代間の意識や価値観の違いを超えて、家庭、地域、職場とそれぞれの持ち場で女性としてどう生きるかは、震災後のこの国の可能性のひとつではないかと思い始めています。

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私と日本

渡邊 弘毅
会社員

私は、日本で生まれ、日本の方針で教育され、日本の常識の中で、41年生きてきた。この間、旅行や仕事でアメリカ合衆国・カナダ・ニュージーランド・ドイツというような欧米諸国、タイ・インドネシア・ラオス・カンボジア・韓国・台湾といったアジア圏、あとアフリカのエチオピアへ行ったことがある。それぞれの地域では言葉はもちろん、仕事に対する取り組み方なども当然異なるのであるが、共通する何かを感じていました。

他国へ足を踏み入れると、その国独特な食べ物があるため、何度も挑戦しては敗退し、下痢を繰り返してきた。でも、一回その国で発症すると次回からは罹らないのが不思議と感じる。「免疫が出来た」という人もいれば、「渡邊君は胃の中でアルコール殺菌しているから」とも言われる。なぜ私が、外国へ行くとその国の食べ物に興味を持つかというと、文化を共有することができるからなのです。同じものを食べると、何か現地の方も同胞意識を感じるらしく、すぐ仲良くなるのがこれまでの私の経験です。これが、共通する何かのような気がします。

なのに、日本人って、日本にいても外国人と交流するのが苦手という人が多いような気がする。外国の方が日本へ来ているのだから、彼らを「郷に入れて」しまい、同じ日本食を食べて仲良くなればいいのにとよく思います。

「和を以て貴びと為す」という十七条の憲法を唱えた聖徳太子の時代より、日本は「和」という単語で国を表したり、その文化を象徴する言葉として使ったりして来た。だから、これからの世の中はもっと日本人が「和」の意味を世界に教えてあげる時代なのではないかと思います。

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日本と私

桂 利治
マネジメントコンサルタント

ひとの考え方は、その育った環境で左右されることが多いだろう。私は現在自営のコンサルタントをしているが、大学を卒業し就職する時点で、会社をいつやめようか考えていた。この私の考えには、私の父親が脱サラで自営業を営んでいたこと、家族がいつも一緒にいて、物心ついてからずっと家業を手伝っていたことが大きく影響している。

同じように「日本」という国、そして日本以外の「外国」に対する考え方も、育った環境で大きく影響を受けるように思う。私は、毎日駅前で惣菜を売っていた家業を誇りに思っていたし、そのような自分が日本から出ることなど考えたこともなかった。

会社に入ってからは、英語くらいはしゃべれるようにしておかなければならないだろうくらいは思ったが、自分が海外に行くことはないと思っていた。(いまでも家内に恨めしく言われるが)新婚旅行も国内だった。

しかし、コンサルティングの仕事を初めてから2週間ほど英国に語学留学することになった。そして、初めての海外で、同じように英語を学びに来た諸外国の人たち(エストニア、リヒテンシュタイン、ドイツ、スペイン、サウジアラビア、ガボン、台湾などなど)と英語という共通言語でコミュニケーションを取るうちに、いかに自分が小さな殻に閉じこもろうとしていたのかを知った。同時に、いかに自分の国のことを知らない/語れない人間であるかを痛感した。もっと若いうちに海外の空気を吸っておくべきだったと思った。そのチャンスはいくらでもあったのに、自分の思い込みが行動に制限をかけてきたことを悔やんだ。

これからの社会を作っていく子どもたちには、外国を意識しつつ、日本を知ることがより重要になるだろう。自分が育ってきた環境(大学に入るためだけの教育、あるいは、就職するためだけの勉強)では、日本という国を語れる人間は生まれない。

それは、確かに家庭の問題、個人の意識の問題もあるだろうが、日本という国がどういう人間を作ろうとしているのかという教育の問題でもあるのだろう。

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いまの日本とわたし

青木 淳子
NPO法人事務員

今から30年程前、「50代後半のわたしは、自分の会いたい人に会い、国内外を問わず行きたい所に行き、自分のしたい事をして、東京の小さなマンションで自由自適にのびのびと暮らしているだろう」と思っていました。

しかし、今、東北は仙台に暮らし、仕事に追われ、生きたいように生きてはいるつもりだけれど、時間的にも肉体的にも、のびのびとは言いがたい暮らしをしています。また、2011年の原発事故以降は、食事や骨休めの温泉選びにもストレスを感じ、また、原発維持推進と憲法改悪への道筋は、いっこうに改まらない日本の有り様に、あきらめと不安を禁じ得ません。将来、国の福利厚生に頼る事もできそうにありません。

60歳で仕事を辞めてゆっくりして、かたばみ(ドクダミ)で覆いつされている庭を手入れし、きれいな花を咲かせたい、読書に埋没する日々を送りたい…などと思っていたのですが、むしろ仕事やライフワークがある事を感謝し、やれる限りはがんばろう、と思い直しています。退職後は、どこに住処をさだめようか…と、夫と話します。仙台の凛とした寒さは好きなのですが、雪かきをしなくて良い所。海や山が近くて、温泉がある所。交通の便が良くて、親や孫や友の顔がすぐ見に行ける所。自分の大切にしたい事を大切にする努力を、いくつになってもし続けたいと願います。さまざまなとらわれから解放され、のびやかに暮らしていきたいと願いつつ過ごしています。

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言葉と沈黙と

市井 聡子
臨床心理士

ある言葉から次の言葉が生まれる間の静寂、そこに浮かぶイメージ、イメージから連なって生まれた次の言葉。言葉と沈黙は、会話を、人を連綿と繋ぎ包み込む。セラピーの場は見えないもので満たされている。

絆を謳われた頃は、親切の押し売りのようでうっとうしかったが、ブームも去り被災地に触れる言葉がなくなるとそれはそれでやるせない。悲しみは続いているのだ。東日本大震災は、もう終わったことなのだろうか。被災地外のみなさん、どう思っているのですか。

仕事において壁にぶつかった。私と違う価値観を持っている仲間と働くのがどうにも苦痛になったのだ。仲間の存在を自分の頭から追い出そうとしたができなかった。仲間から隠れようとしたが孤独に耐えられなかった。解決策は、'補い合う'という見方。言葉と沈黙がお互いを必要とするように。違う個性の人のおかげで自分の個性が光る、と。自分の良さを磨け。他人の良さを認めよ。

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ひとりぶつくさ -その3-

やすい うゐこ

2013年1月1日、ママ、行こっ!と言う娘の掛け声と、遥から聞こえる教会の鐘の音に誘われて出かけた。毎日を一つ屋根の下で暮らしあれこれ話しながら、2人で腕組んで歩くのは23年ぶり。19歳で共同下宿に住み始めたのをかわきりに、ギーセン大学からハンブルク大学に移った後も独立独歩。1年間休学をし、或る教授の助手を務め挙げた後再び学業に戻り修士資格を獲得後卒業、聴けば教授の依頼に応え国際会議の準備を完璧に成し遂げたそれが功を奏して現会社に採用されジャーナリストとして活動できるのだと言う。ハンブルク市内での引っ越しも今回で7回目かなぁ…というが、今の住まいは中心街に近い東南部、閑静な赤レンガアパートが並ぶ住宅街の中にある一軒家の1階。そこから7分位歩いたところに、目的の三位一体(Dreifaltigkeit)教会はある。第二次大戦の終戦間際戦火に見舞われ、住民や観光客からの寄付で修理を終え、文化遺産にも指定された数百年の歴史を支えた由緒のある建造物なのだという。嬉しいのはドイツの教会は、どの街のどの教会を訪ねても同じように黙々と心から訪問者を迎え入れる。訪れる者も静けさを大切にしていられる。挨拶はしたければすればいいが、大抵は瞑想をする人として訪問者をそっとしておくのが常識。たとえば買い物途中の暑さや寒さしのぎに利用しても誰も何も言わない。教会の扉を押して訪れるそれだけでいいのだ。

再び鳴る鐘の音は18時を報せ、礼拝は始まった。

Wir haben keine bleibende Stadt,sondern die Zukuenftige Suchen wir.
Habraer 13:14

私たちは永遠に滞在できる場所を持たない。そうではなくて未来のためにその場所を探そう。
ヘブル人への手紙13:14 (訳 やすい)

新しいその場所、ホッとできる処、自由、解放された処、陽気に快活に確信を持って探そう、生きている時のためだけではなく、私たちが死んで後にも安心できる処をこの地球上ではないところに、未来のために探そう…、と牧師は語る。

フランクルの言う、精神と心と身体の関わりがここにもあるような気がしてくる。 その場所は誰かによってあてがわれるものではない。自分の道として、自分でその場所を探すことに意味がある。歩むべき方向を見定めるためには常日頃の生活の中での刻々に新しい力が必需であり、刻々の出来事に相応しい反応が出来ることを可能にする知恵も要る。5000年の歴史を持つというユダヤ人によってヘブル語で纏められた教養の書籍は、ユダヤ教徒の家庭の中では学び続けられているという。そのほんの一部分に旧約聖書や旧約続編などを通して私たちも世界各国の現代語で触れることができる。読み、学び、聴こうとする人々を考えることに導き、生き方を援けようとしているドイツの教会の伝統は福祉活動の一端でもある。ドイツで神学を学びそれを職業に選択することを希望すると、医者になるのと同等の成績を取らねばならないというほどの叡知を求められる。精神、魂、心と身体を救うことを職業とするのだから厳しさは当然であろうとさえ思う。

教会といえばその佇まいの何かに魅かれてZisterzienser修道院(シトー会)をよく訪れていた。高い天井の下、高い窓、飾りは少なく、僧侶が瞑想するための立ち椅子には使い続けられて出来たつやがある。その立ち椅子に施された細工、修道僧によって造られてきたというその美しさにも感銘を受ける。礼拝堂訪問者のためには単純な木製の椅子が並べられているだけ。敷地内には角は取れ、苔むした墓石が並んでいる。ローマ時代やフランス革命時代には政府軍に追われて北へ西へ東へと迫害から逃れ、僧侶たちが辿りついた土地に築いた修道院はヨーロッパ各地に点在し、現代に受け継がれて生きている。建築様式はもとよりそこに集う人々のおおらかさや優しさ、厳格さや品格。2カ月間の慌ただしい研修の合間をぬいながら、15年ぶりに再び訪れることができたわたしは、包み込まれるようななつかしさのなかにしばしの時をたのしませて戴いた。

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あとがき

☆このたびも皆さんからの原稿を戴き、おかげさまでこの通信を作成することができました。通信を皆様の智恵で満たすことができまして深謝です。

☆「(今の)日本と私」というテーマは皆さんの中にさまざまな考えや感じ方、テーマの設定を解放して興味深いと思いました。それぞれの個人史と経験と思索が反映しているように感じて、刺激を与えられました。

☆三月十一日、東日本大震災の二周年記念を迎えます。震災のショックで右往左往している間は、見えないことが沢山あった。幾分、静まったあとの自分と出会ったとき復興の端緒に就いた。物の面とこころの面の復興があります。仙台の人々は一所懸命生きております。

☆ヘルシンキ経由で凍てつく北ドイツのハンブルク市に降り立ったのは12月3日、ハンブルク弁は早口で聴き取り難いのには参った。以前住んでいたヘッセン州弁は穏やかでゆっくり、丁寧に話すのがふつう。この違いは何処から来るのかと不思議なくらいだった。

☆研修に加えて、国際結婚されたご夫妻や国際結婚されたお子さんを持つ親御さん(ドイツ人)のカウンセリングを引き受けたが、将来的にはこれが意味のある仕事になりえることを確信させられる旅にも成った。

☆ドイツ滞在中に日本の政権は民主党から自民党に代った。ドイツのテレビでは、日本の新政府に対してスケプティッシュな考えや意見を述べ挙げるニュースがしばらく続いていた。EU連合でもアメリカナイズされたままの日本に対して、生半可ではない、好感は持てない表現をたびたび見聞し、私自身相当な刺激を受け考えさせられた。

☆『現代思想』(青土社)月刊誌3月号、臨時増刊号「イマーゴ」でヴィクトール・フランクル総特集を組むとのことで、「東日本大震災のあとフランクルの『夜と霧』をどう読むか」という論考を出版社に送りました。本は2013年3月18日発売の運びになるとのことです。

【単価】
税込 ¥1050,−

【発行者】
安井 猛
日本ロゴセラピー&実存分析研究所・仙台 研究所所長
社団法人ドイツ国ロゴセラピー&実存分析協会(DGLE)公認ロゴセラピスト

【住所】
〒980-0014 宮城県仙台市青葉区本町1-13-32(株)オーロラビル605

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