言葉と沈黙と 第7号

2014年1月

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読者の皆さまへ

皆さまとご家族のご健勝を念じあげます。
正月をどのようにお過ごしになられましたか。今年度、実現したい願いあるいは夢は何でしょうか。ほぼ三年前の東日本大震災をきっかけにして、この国は物心ともに貧しくなることが日々可視的になったと考える人々の数は少なくありません。しかし、立ち止まって考えますと、これはただ自分自身の内と外をじっと見つめ、何かを蓄えるチャンスの時が来ただけのことです。皆さまにおかれましては、平和な一年でありますよう祈念申し上げます。私どもは、電話でドイツに住む娘の声を二度ほど聞き、妻と二人での年越しでした。今日は5日ですが、一昨日から仕事で研究所にいます。弊研究所は仙台駅前通りの少し広い歩道のなだらかな坂道を北へ向かって10分くらい歩いたところにあります。途中大きな信号を二つ超えて、駅前通りと定禅寺通りの交錯する角から手前へ2件目のビルの中にあります。街の真ん中ではありますが、室内はとても静かです。研修室は12人用の机椅子を完備しております。昨年もここで様々な会話が行われましたが、今年も研究所の行事に集まる皆さんに活用されることを願っております。

今日も妻は事務室でパソコンを前に『言葉と沈黙と』を編集しております。私は仕事はじめに今年度の予定プログラム、「企業において従業員を『信頼する』とはどういうことか」を準備しました。労働者が自己と組織に対する信頼を保持し、楽しく元気に働けることは重要なことでしょう。企業において誠実に働こうとする立派な若者たちを見つける、彼らに挑戦させる。彼らとしばしば語る。彼らを信頼する。彼らにふさわしい賃金を払い、よい扱いをする。指導する者は若者たちが育つ頃には去る。このような「信頼する」を中心としたマネジメントをシステムとして達成する道筋をつけることが狙いです。

すでに五、六年前から産業におけるロゴセラピーの有効性をドイツの同僚たちの動きを通して確認し、同時に「信頼すること」は「誠実」や「ホンモノ」や「効果」と並んでドラッカーのマネジメント学および実践のツールであることを確認してきました。しかし「信頼すること」はいたるところで欠けています。信頼があるところでは融通のきく組織、再組織は可能となります。「信頼すること」は顧客を結び、企業を速やかにし、知識の伝承と企業の発展を可能にします。創造性と革新を容易にします。「信頼すること」は費用を節約し、従業員を結び、本質的な動機を保護します。リーダーシップを成功に導きます。このように「信頼する」ことは実に無限の可能性を秘めております。

ロゴセラピーの諸原理を経済、産業そして労働世界へ適用することは日本においては、僅かな例外を除いては未知の分野ですが、私はすでに東日本大震災後の日本において実践しております。弊ロゴセラピー研究所は自らを総合的研究所として理解しておりますので、このことは内的必然性であると確信します。新しい年は開け、すでに始まっておりますが、お互いに少しでも前進しながら社会に貢献できれば有難いことと想いつつおります。

安井 猛(PhD)

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人間は好奇心がありさえすれば、すべてに慣れる存在だ!

安井 猛(PhD)

ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』は私を掴んで離さない。この本の構成を厳密に分析し、フランクルの言葉を味読すればするほど、その都度それまで読み落としたことがあることに気づく。その一つは、フランクルはすでに収容所に収容されるプロセスにおいて、彼がそこを生きて出られることを確信したと形跡があることだ。彼がウィーンから家畜運搬列車に揺られながらアウシュヴィッツに到着した後、収容されるまでの物語は比較的詳細に描かれている。「第一段階 収容」の叙述の諸断片のタイトルを挙げてみよう。「アウシュヴィッツ駅」「最初の選別」「消毒」「人に残されたもの ― 裸の存在」「最初の反応」そして「鉄条網に走る?」となっている。フランクルは様々なことがあったあと、結局、彼は「裸の存在」以外には何一つ持たない状態に追いやられ、窮地に陥った。すると、わかったことがある。「思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!」「やけくそのユーモアのほかにもうひとつ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。」そう、ユーモアと好奇心!フランクルはこの二つを味方にすれば、生き延びられるに違いないと考えた。この二つは必ずや彼に、その都度陥るかもしれない困窮を超えさせるに違いないからだ。彼はユーモアを使って「自分自身を、ひいてはお互いを笑い飛ばそうと躍起になった」。ユーモアは「ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在に備わっている何か」だと言う。好奇心とは、「世界をしらっと外からながめ、人びとから距離をおく、冷淡と言ってもよい」能力のことである。「様々な場面で、魂を引っ込め、何とか無事やり過ごそうとする傍観と受け身の気分」のことである。「私たちは好奇心の塊だった。この先一体どうなるのだろう、どんな結末が待っているのだろう。」フランクルの言葉で言うと、ユーモアも好奇心もともに自分の陥っている状況から距離を取り、そのことによってそれを超え次の状況へ移る技法、すなわち「自己距離化」と「自己超越」という療法的技法のことである。両者は精神の働きに根差しており、明確な構造と力学をもち、精粗を問わず反復可能であり、回復の方法となり得る。

収容されたあと、フランクルの好奇心は彼に「人間には何でも可能だ」という動かぬ認識を届けた。彼は言う、「人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しいかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それは本当か、本当なら、それはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、本当だ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい…」(引用は、他の引用を含め池田訳)と。フランクルは強制収容所を、好奇心を働かせることにより生き延び、ウィーンへの生還を果たした。好奇心は危機に臨んで環境に適合することを可能としたからである。『夜と霧』は環境への適合によって危機を生き延びた物語に他ならない。収容から生還へいたる物語は、フランクルの二年半の収容所生活の記録を含む。強制労働の厳しさ、下劣な人間達、被収容者仲間との交わり、生きているかどうかのわからない妻との、イメージの中での語らい。自然の美しさの体験、ガス室における大量殺戮と恐怖、疲労と飢えによる死、苦悩と死と犠性の意味の探求等々が描写される。フランクルはこのような絶望の世界の中で、「人間はなにごとにも慣れる存在である」ことを証明した。彼は好奇心を研ぎ澄ませながら環境の中に入って行った。同時に、彼の思いは彼の内面世界の核の部分の中へ入り込んでいった。それは彼に力を与えた。その結果、宿命に逆らわずにそれを乗り超える彼固有の敏感さ(Empfindsamkeit) を発達させた。刻々と変わる収容所内の様子に対応する敏感さ、同時に自分自身の感情の微妙な差異と変化に対応する敏感さを磨き上げた。彼はこのゆえに、一方では、確かに彼に好都合な運命のめぐりあわせがあったにせよ、無事、強制収容所を出、故郷へ生還できたのだった。

フランクルによると、『夜と霧』は強制収容所での体験を心理学的観点から纏められた。彼はそれが偏りを含むかもしれないので、誰かがそれを「客観的な理論」へ結晶させる必要があるかもしれないと考えた。その場合、彼はこの仕事を安んじて他の人の手にゆだねるとした。(池田訳、9頁)確かに、彼の説いた好奇心はこの言葉の含む意味の一部に関わるにすぎない可能性もある。私はこの理由からあちこち好奇心に関する文章を検索すると、アメリカの哲学者、ジョン・C・マックスウェルの『成長の15の価値ある法則』と出会った。彼はその12番目の法則に「好奇心の法則」があると言う。この哲学者は「好奇心の法則」を身につけたいと思うなら以下の10個の問いを自分のものとし、毎日、自分の成長のために使うよう勧めている。以下、それらを引用しよう。

君は好奇心を持てることを信ずるか?
君は初心者のマインド・セット(心構え)をもってことに当たるか?
君はなぜ?を君の好きな言葉としたか?
君は好奇心旺盛の人々と時を過ごしたか?
君は毎日何か新しいことを学ぶか?
君は失敗の果実に与るか?
君は唯一の正しい答えを探すことを止めたか?
君は君自身を克服したことがあるか?
君はボックス(習慣)から出ているか?
君は人生を楽しんでいるか?

これら問いのたて方はいずれもマックスウェルらしく、味わい深い。フランクルも言う、好奇心は、それを使い続けなければ、風化し、使えなくなると。それは感情の一種であり、感情の本質、その特徴はそれが消えるところにあると。それ故、為すべきことは只一つ、心身を改造し、それを精神的なものの表現点として鍛え続ける、好奇心に固有な敏感さを維持することである。これ以外に行く道はないし、この道こそ正道なのである。

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富吉建周九州産業大学教授からのお手紙とご論考について

私は2011年から2012年にかけて富吉教授より、彼のロゴセラピー理解およびそれにもとづくロゴセラピー批判を戴きました。それとの関連において私のロゴセラピー理解の一部を当時ニュース・レター3号と4号の中に手短に書きました。その後、富吉教授より彼のご論考をニュース・レターに掲載するように、とのご提案を戴き、この度、それを果すことになりました。『言葉と沈黙と』の読者あるいは他の方々の中から富吉建周教授のご論考に応答してくださる方がおられれば、この小冊子がフォーラムを提供することになりますので望外な幸甚に存じます。
なを、内容・句読点等すべて教授の直筆そのままをタイプし転載しております。(安井)

暑中お見舞い申し上げます。
三十度を超える暑さが、日々続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。また放射能のことも御心配だと思っております。

ニュース・レターを送り戴いてありがとうございました。活動を再開されたことは何よりのことと思っております。大震災に直面して、有効な・聞くに値する哲学は心身脱落に苦しんだ哲学でなければなりません。それを貴兄は、フランクルのロゴセラピーに見出しておられ、そこから、「態度価値の実現」ということをよりどころにして、大震災・運命的なものに立ち向かお う、それを梃子にして、被災者に寄り添おう、援助しよう、その被災者を心底慰めようとされておられます。

しかし、フランクルのロゴセラピーによれば、そこが手掛かりであると言うほかないでしょうが、それではあまりにも消極的であると思われます。フランクルは、人間を、三次元的存在、身体的・心理的・精神的存在として発見し、そのことを強制収容所において実験し、「精神」を再発見できたので、身体的・心理的に過酷な強制収容所を生き延びることができた、この「精神」は誰も奪い取ることはできないし、それは決して止まないことを確証することができた。ここからロゴセラピーの技法として、「態度価値の実現」或は人間は人生そのものからどう生きているか問われている存在であるということが成り立ってきたと思われます。しかし、それは、「精神」の次元のことを、普遍的技法であろうとしてあいまいのままにしております。パスカルから学んでおるものですから、それは神と言う絶対者との根源的な関係・きずな(子の神キリスト…。『夜と霧』(霜山訳128頁、171頁、池田訳67頁・117頁)からとり出すことができます)を指していますし、滝沢先生によれば浄土真宗や禅宗においても、同じ事実が、つまり仏凡一体ということが言われますので、フランクルの「精神」は、積極的には、神・仏(絶対者)との根源的な関係(インマヌエルの原事実・仏凡一体の原関係)を指し示している(すでに御承知のことと思われますが)。

従って大震災に直面して、ハッキリと言わなければならないのは、この根源的な事実ではないでしょうか。「態度価値の実現」を可能にするその積極的な根拠です。このことは、決して相手(被災者)の弱みにつけ込んで宗教を説くということとは異なっております。なぜなら、肉親を失ったり、家・財産・職業を失った人でも、どっこいその人は確かに生きているからです。その生きているということを本当に積極的に解き明かしてあげることなしには ― そのことこそまず、第一にカウンセラーのする仕事であると思います ― その人は、本当には慰められないし、心機一転ということは起こりようもないと思います。「がんばろう!!」とか「きずなを大切にしよう」とかスローガンとして叫んでみても、ほんとうに元気は、根源的に神様と一つ、仏様と一つというところからしか、出てきませんし、きずな・さまざまな関係(親子・夫婦・兄弟姉妹、食べ物、職業)もそこを基にしてこそ健全なものとなるわけですので、そのことを言わなければ、本当に被災者を心の底から慰めることはできませんし、カウンセラー自身被災者の立場に立ったり、寄り添ったりすることはできません。従って生き残った被災者の失った親族・兄弟姉妹に対する思いを、本当になぐさめることはできません。いやすことはできません。ぜなら仏凡一体の根源的な事実に基づいて、なくなった人は、今も、その仏・神の空間に生きておられる・復活しておられる(フランクルも過去になった者は最も確実に保存されていると言っております)と言ってほんとうになぐさめることができるし、自分自身も慰められた人の分まで生きるのだというような無理なストレスを自分にかけることなく、生きて、仏凡一体・インマヌエルの原事実に気づくことによって(強制的に心身脱落のところに追い込まれておりますから、かえって「精神」のことを気がつきやすい位置にいますで)、生きていて、正定聚の位につくこと・永遠の命に与ること・本当の自己に覚醒することが可能になるし、このような生き方は、仏教者が・キリスト者が求めている最も充実した生き方であるわけです。

フランクルは「意識していようとなかろうと良心の背後に神がいる」と「精神」の事を言おうとしていますが、心身の脱落するところですから、端的に、無条件に「インマヌエルの原事実」「凡物一体の事実」と言うべきなのです、ロゴセラピーとして、宗教的なことに触れたくない、それは科学であると変な自己規制をしていますから、宗教ではない、宗教がそれによって成り立つ単純な事実が明確にならないのです。 ― ニュース・レターを読んで、こんな感想を思っていましました。ドラッカーとかクリシュナムルティとかのことが出てきておりますが、そこから学ぼうとされておりますが、まず何よりも、フランクル自身の根本問題を解明することが、ロゴセラピストとしては課題になるのではないでしょうか。

別便で新著『ルネ・デカルトと滝沢克己』下巻を送らせていただきます。
どうぞ暑さの厳しい折、御身体を大切に、ご活躍下さい。

敬具

八月一日
富吉 建周

安井 猛様

「それにもかかわらず(Trotzdem)」 - 安井教授の疑問に対するお答え -

富吉 建周

ロゴセラピーについてのまったく素人に過ぎない私の感想について、わざわざニュース・レターで取り上げて三つの論拠による詳しい反論を、従ってロゴセラピーの積極的な理論でもっての答弁を、行って頂いたことにまったく驚いておりますし、私のそれについての蒙を啓いて下さったことに感謝いたします。その批評に答えることができるかどうか覚束ないことですが、私なりにその批評でもって言わんとしたことを率直に述べさせて戴くことにしたいと思っております。

まず、「精神の次元のことを曖昧のままにしている」ということについて。「精神的なものの次元といいますのは、人間が彼のその都度の人生の状況の中に含まれる意味を意志し、理解し、それを選択し実現する客観的能力ことです。この能力は不生不滅であり、人間がその都度一定の状況の中に実存するとは、この客観的能力に裏打ちされてのことです」(『夜と霧』(霜山訳)一二七〜一二八頁に拠っていること)と「精神の次元」と定義されていることについては、「客観的」とか、「不生不滅」とかを除いては、私は「曖昧」であると言っているのではないのです。そうではなくて、フランクルも「究極的・本来的に良心[精神]の背後にいます神」と言っておりますように、人間の心身の脱落したところに「神われらと共にいます」という「原事実」が実在するのですが、この「客観的」「不生不滅」の「原事実」を、フランクルが「精神の次元」と定義づけていることに問題があるわけです。「精神の次元」ということが、その「インマヌエル」の原事実を曖昧にする、と私は考えているわけです。フランクルも、パスカルが「身体」「精神」「知恵・心情(神の愛)」と人間における三つの秩序を区別しておりますが、そのことをM・シェーラーを通して学んだと思われます。しかし、神と人との根源的な関係(インマヌエルの原事実)においては人間は「なにものでもない」、身体でも心でも精神でもない、創世記第二章の「土のちり」に過ぎないのです。どこまでも人間イエス(「イエス・キリスト」)が己をむなしくして(「なにものでもないもの」となって、己を十字架につけて)指し示している「原事実」を大切にしようとするならば、人間の意識つまり「精神の次元」(旧約聖書のアブラハムの『信仰』が事柄からして相当する)ということでは厳密に即事的ではありません。意識でない「原事実」を明晰に表現しようとすれば、人間は土のちりに過ぎないと表現すべきです。キルケゴールではないですが、神と人が一つのところでは、その相違はきわ立つと申しますように、神の前の人は文字通り、何ものでもないもの、いかなる積極的な本質も存在も持たない「何ものでもないもの」です。そして次のこととしてそこに確かに「不生不滅」の「精神」もあるのですが、この「精神」は、これも創世記の第二章が厳密に即事的に表現しておりますように、「神の命の息」のことです。土のちりに吹き込まれた、「神の命の息」であり、人間のものではありません。その意味で、それは「原事実」において成り立っている客観的事実であり、不生不滅のものです。私は「神・仏との根源的なつながり・関係」と言いましたが、インマヌエルの原事実は、「精神の次元」・人間の意識ではない事実であり、その意味で人間的次元(人間イエス・釈迦など)と区別される、文字通り普遍的・根源的「事実」でありますから、キリスト教や仏教という「宗教」ではないのです。たとえそれらがこの「原事実」を典型的に表現しているものであるとしても。

従って、人間は、神と人との根源的な関係に於いて、神を映し出すもの・「神の似姿」として存在しておりますので、常住座臥この根源的な事実から、この事実に信頼して生きているかどうかを問われているのであり、この問いに答えるということが人間が生きるということなのです。このような事情から、人生から絶えず問われている、人生に人間が期待するのではなく、人生から逆に人間が期待されているという転換も可能になるのであり、態度価値の実現が、創造的価値の実現よりも、体験価値の実現よりも、根源的なこと、何よりも先のことだということもここから理解されてきます。例えば、二人の人生に絶望した男性と女性の話、彼らがその絶望から脱却できたのは、フランクルの助言によって「二人を待っているもの(学問上の著作と実の娘)」を発見することができたからであり、「ものごとの考え方を一八〇度転換することができたから」である。(『それでも人生に然りを言う』)このような説明は、「精神の次元」のことであるというので、説得的でありますが、即事的ではありません。「人生から期待されている」とは、インマヌエルの原事実から、それに於いてある根源的事実から、その事実を拠り所として生きているかどうか絶えず問われているということであり、絶望から本当に脱却できるというのは、われわれの生きる根拠である根源的事実に気付くということによってのみであり、単に人間の意識(「精神」もふくめて)の転換によって、「考え方を変えること」によってではありません。我々の考え方そのものも、「神の命の息」によって、― 根源的な事実において、土のちりに過ぎない人間に、この事実の絶対の背後にいます神より恵まれてくることによって ― 可能になるのです。根源的事実との関係に於いてのみ、我々が考える・思うということもまた思惟の転換ということも成立するのです。さらに二人を待っていたもの(学問上の著作や実の娘)も、この根源的な関係に於いて ― 根源的な親・父(神・仏)との関係に於いて、その子として人間の存在はある ― 人間が実在するが故に、この世界の内側にそれを映して、親子の関係・人と食物との関係・人と学問的著作との関係も相対的に必然的なこととして出てくるのです。従って、状況において、その人が待たれているものを発見することによって、絶望から解放されたということも、実に個々の状況を越えた、根源的普遍的な状況(神と人との関係)にどのように人間が応答するのかに拠るのであると言わなければなりません。

『夜と霧』の中の例の強制収容所で亡くなった若い女の感動的な死の間際の態度についての話がありますが、「以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからです」とそこで語られていることも「精神の次元」の態度として説明されていますが、「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる ― 私は ― ここに ― いる。わたしはいるのだ。永遠の命だ…」ということは、それでは説明できません。フランクルはそれで説明できると考えておりますが。何故なら、樹と話が出来る、コミュニケーションが出来るということのためには、人間も、「なにものでもないもの」として樹と等しいものとならなければ不可能です。積極的に言えば、人間が神・仏との根源的な関係においてあるからこそ、そこでは人間は「なにものでもないもの」として、樹と同じものとして、神・仏によって、支えられ生かされているわけです。従って、コミュニケーションも、そこでのみ成立するわけです。「精神の次元」において成立しているのではなく、その身も心も精神も落ちてしまう根源的事実においてのみ成立するのです。この根源的な事実に於いてあるものは、この根源的な事実を視点としてみると、物であろうと、樹であろうと、動物であろうと、人間であろうと、それぞれの限りにおいて[永遠の命]を表現しているもの、それぞれの段階において「神の命の息」を映し出しているものであるわけです。従って若い女性は、「精神の次元」に立ち帰ってきたからではなくて、それをさらに超えて「なにものでもないもの」の次元に帰って来たので、そのようなことが可能になったのであると、即事的に説明しなければなりません。

従って宗教とロゴセラピーの関係について「ロゴセラピーはある特定の人間がいまここに一度限りの具体的状況いおいて意味を探求しそれを発見するのを助ける」、つまり、「意味の探求を解き放つ」、「心理的な病気予防する」「心理的な病気を治す」[精神病に苦しむ人間に理想的な生活態度を作りだす]ための手伝いをする。ロゴセラピストは、どこまでもある人間の、いま・ここの状況に即した心理療法を行う。彼は人間の魂の救済という問題から解放されている。彼は「人間の人生そのものの有意味性」を論ずるのでも、「宇宙全体の存在の意味」を論ずるのでもない。「このことはロゴセラピーの創設者[フランクル]の方針として決まっている」ということに関して「富吉氏に決定的に欠けているかもしれないと思われることはこの鉄則に対する現実的感覚だと思います」と安井教授は批判を締めくくっておられますが、私からすればフランクルがかの「原事実」を「精神の次元」のこととして曖昧にした、あえて言えば[原事実]を人間の意識の次元のことと受け止めたところに、このような鉄則が出てきた理由があると思われます。(椎名麟三が『夜と霧』をあまり評価しないのは、このような事象に依ることだと思われます(『私の人生手帳』)。
最後に、安井教授は、池田香代子訳で引用しておりますが、「安逸な生」(これは体験価値に関して)、「覚悟」(これは態度価値の実現に関して)「生きること」(場所的な意味で人生と言われていることに関して)。「精神的に」(この訳者はフランクル身・心・精神の区別をしていることを理解しておりませんから、たまたま「精神的」と言っておりますが、フランクルの意味で、そう訳しているわけではない、他の所でそれを「魂」と訳したりしています) ― このような誤訳をそのまま引用されておられますが、(霜山訳の方が優れたものと思います)フランクルのために残念なことと思っております。「新版」はフランクルが増補したものが訳出されておりますので大切なものですが、それだけますますご訳が訂正されることが望ましいことです。

私のフランクルについての思いを率直に述べてみました。専門家から見られるならば、さぞ独断が含まれていることでしょうが、今の私にお答えでいるのは、このようなことでしかありません。御批評をお聞かせ頂けますならば、感謝のしようはありません。

二〇一二・一・二三

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「いい人は帰ってこなかった」-池田香代子訳『夜と霧』への疑義-

関西大学文学部総合人文学科ドイツ学専修教授
芝田 豊彦

強制収容所に入れられたユダヤ人たちの多くは生存競争で良心を失い、暴力も窃盗も平気になっていった。しかし極限下の強制収容所では、そのような者だけが命をつなぐことができたのである。池田訳1ではさらに次のように続く。「何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもよいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。」(訳書5頁)

これを読んで読者は、収容所から帰還したフランクルは悪人だったのだ、少なくともいい人ではなかったのだ、と思うであろうか。むしろ、収容所から帰還した自分を「いい人」と認めようとしないフランクルの告白に感動し、彼をけっして悪人とは思わないであろう。

ところがフランクルは、「いい人は帰ってこなかった」と言ったのではなく、「最もいい人(die Besten)は帰ってこなかった」としか言っていないのである。おそらく池田氏は上で私が述べたような印象を読者に引き起こすために、意図的に「いい人」と訳したものと思われる。しかし単に不正確という理由からだけでなく、この訳はもっとおおきな問題を孕んでいる。いい人である限りにおいて、強制収容所から帰還するはずがないと主張することによって、強制収容所から帰還した人々――例えばフランクルがよく引用する少年ベーコン2――の名誉を傷つけているのである。フランクルが言ったのは、彼らが「最もいい人」ではなかったということであり、彼らが「いい人」である可能性を排除していないのである。さらに、言っていないことを言ったとすることによって、フランクルその人の名誉も傷つけていることになる。

上記以外に池田訳には気になる本質的な点がいくつかある。フランクルの思想の基礎には彼の人間像があり、心ないし魂(Seele)と精神(Geist)は次元的に異なっているとされる。しかし、池田訳においては両者の区別がはっきりしていない。この点に池田訳の致命的な欠陥を認めることができる。例えば、訳書61頁の「魂」の原語はSeeleであるが、62頁の「魂」の原語はGeistなのである。またgeistigという形容詞はほぼ一貫して「精神的」と訳されているようであるが3、31頁の「精神状態」の「精神」の原語はSeeleなのである。このふたつの区別がフランクルにとって本質的なのは、「精神」(Geist)はけっして病むことがなく、身心より次元的に高次であり、身心に対して距離を取ることができるからである。例えば、収容所で未来を信じることができなくなった者は、身体的にも心理的(seelisch)にも破綻していった、とフランクルは述べる(訳書125頁)。「心理的」と訳すべきseelischを、池田氏は「精神的」と訳しているのである。しかしフランクル的立場から言えば、精神が破綻するはずはないのである。たしかに日本語において心と精神は必ずしも区別されて用いられているわけではなく、「精神病」というような表現も用いられるが、フランクルにおいて精神はけっして病むことがないのであるから、このような表現はまったく不適切である。日常的な日本語の用法から池田訳を一方的に誤訳とするわけにはいかないにしても、フランクルの著作の翻訳である以上、それなりの配慮が必要ではないのか、ということなのである。

フランクルにおける心と精神の区別はシェーラーの影響である。さらに「感情」(Gefühl)という言葉もふたりにおいて重要である。フランクルの言うように、「状態的感情」(単なる感情の状態)と「志向的感情」を区別したのはシェーラーの功績である4。志向的感情は精神的無意識に根ざしているのであって、自分を越えて他のものを志向し、対象とするのである。一般に思われているように「感情」は、少なくともシェーラーの意味での「志向的感情」は、けっして「不正確」ではない。フランクルは次のように言う。「悟性が鋭く洞察することができる以上に、感情はずっと繊細に感じることができる」。

ところで『イマーゴ』の2013年4月臨時増刊号は、フランクルの特集にあてられており、安井猛氏は感情ないし情緒についての注目すべき論考を寄稿しておられる。安井氏の言われる「感情の持つ知性」ないし「情諸的知性」とは、シェーラーやフランクルの表現では、「志向的感情」ないし「精神的感情」に相当するであろう。安井氏は同雑誌の237頁で、『夜と霧』の最後の言葉を自身の訳で引用する。「〔収容所から〕帰郷した人間のこれらすべての体験は、これらすべての苦悩のあと、もはや世の中には神の他には恐れなければならないものはないという代価を払って手に入れた感情によって完成されるのだ」。ここで「もはや世の中には神の他には恐れなければならないものはないという…感情」とは、「精神的に感じとる」(シェーラー)ことによって得られたものである。ここで池田訳を用いることはできない。池田訳では、「感情」(Gefühl)という言葉は「感慨」(157頁)というきわめて主観の強い言葉で訳されているからである。池田訳はたしかにこなれた達意の訳であるのかもしれない。しかしフランクルの思想圏から逸脱する危険性も感ぜざるを得ないのである。

ドイツ人の集合的罪責を否定する論拠であるフランクルの次の発言も重要である。「こうしたことから、わたしたちは学ぶのだ。この世にはふたつの人間の種族がいる、いや、ふたつの種族しかいない、まともな人間とまともではない人間と、ということを」(145頁)。ここで池田氏はanständigを「まともな」と訳しておられる。みすず書房の旧訳の霜山徳爾氏は新訳(池田訳)を褒めており、自分と比べて次のように語っている(164頁)。「それに対して、新訳者〔池田氏のこと〕の平和な時代に生きてきた優しい心は、流麗な文章になるであろう。いわゆる “anständig“な(これは色々なニュアンスがあって訳しにくいが「育ちのよい」とでもいうべきか)文字というものは良いものである」(164頁)。霜山氏がanständigという言葉を原語であえて用いたのは、池田氏の上の訳文を意識してのことではなかったであろうか。そして暗黙のうちに抗議を込めているのではなかろうか。たしかにanständigに「まともな」というようなニュアンスがあるにしても(例えば研究社の新コンサイス独和辞典には「まっとうな」という記載がある)、ここでの「まともな人間」という池田訳は私にはどうしても「まともな」訳には思えないのだ。

以上いろいろ言わせていただいたが、池田訳が最近の世代にとって読みやすいこなれた訳であることには異論がない。そういう意味では良い訳と言っても差支えない。しかしながらフランクルの思想を考慮に入れる時、池田訳に若干の修正を望まざるを得ないのである。

1. 池田香代子訳『夜と霧』みすず書房第7刷(2005年)。 なお、下線は筆者による(以下同様)。
2. Yehuda Baconは少年の時にアウシュビッツ強制収容所に入れられるが、後に画家および彫刻家となる。彼の言葉は例えば次を参照せよ。Viktor E. Frankl, Der Mensch vor der Frage nach dem Sinn, München (Piper) 2007, S.49.
3. innerlichが「精神的」と訳される場合もある(125頁)。
4. このあたりの記述は次を参照のこと。Viktor E. Frankl, Der unbewußte Gott, München (Kösel) 1974, S.32f.

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「語りえぬ神については、神に祈らなければならない。」

兵庫大学健康科学部健康システム学科教授
廣岡 義之

フランクルはしばしば犬を使用したたとえ話を私たちに提供してくれます。究極的意味への信仰は、究極的存在への信頼、神への信頼によって先行されるという真理について次のようなたとえが出されました。一匹の病気の飼い犬のことを想像してください、と。あなたは獣医のもとにペットである自分の犬を連れていくと、獣医は注射をして犬に治療のための苦痛を与えます。その犬はあなたを見上げて痛みを伴うにもかかわらず静かにしているでしょう。つまりあなたの犬は苦しみの意味や注射や包帯の目的を理解できないのですが、あなたを見つめる犬の姿は、あなたを際限なく信頼していることを示しているのです。犬はあなたとの信頼を通して、その医者が自分を傷つけないことと推測するのです。

人間は、人間世界と神の世界の間の次元的相違点を打ち破ることはできませんが、究極的存在への「信頼」を媒介とする「信仰」を通して、究極的意味を求めることはできます。ここで私たちは再び、マルティン・ハイデッガーが存在論的相違と呼んでいるものに相当するもの、つまり物と存在の間の本質的相違に出会うのです。ハイデッガーは、存在は様々な物の中の一つの物ではないと考えています。数年前、一人の男の子がフランクルの妻に、大人になったら自分は何になるかを知っていると言いました。妻がそれは何と尋ねたら、その子は「ぼくはサーカスのブランコでするアクロバットか、そうでなきゃ、神さまになるんだ。」と答えたというのです。つまりその子は神であることが様々な職業の中の一つであるかのように、神を扱ったのです。

存在と物との存在論的相違、もしくはさらに詳しく言えば、究極的存在と人間存在の次元的相違こそが、人間が真に神について語ることを妨げているのです。神について語ることは、存在を物にすること、つまりそれは「具体化」を意味することになってしまいます。別の言い方をすれば、人間は神について語ることはできませんが、神に「語りかけること」はできるのです。人間は「祈ること」さえもできる存在なのです。

ルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインのもっとも有名な著書の結論部のもっとも有名な文章は次のようにしめくくられています。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」と。この文章は多くの言語に翻訳されてきましたが、これを不可知論の言語から神学の言語に翻訳してみると次のようになるでしょう。「語りえぬ神については、神に祈らなければならない。」と。

2013.11.26

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灯篭流しに思う

ロゴセラピー研修生・心理療法士
市井 聡子

昨夏の終わりに、地域の夏祭りで行われる灯篭流しに行った。各々供養したい人の名や願いを灯篭にしたため、川岸から次々と灯篭を川に放っている。私が作った灯篭が川にそっと入ったとき、灯篭に託した気持ちが遠い別な世界に行ったような感覚があった。灯篭は、ゆっくりと川の流れに乗って次第に他のものと寄り合ったりまた離れたりして流れていく。一度も私の方に戻ってくることはなかった。私の手から旅立った気持ちはあちらの世界で生きていくのだろう。川面に映る色とりどりの花火の光がとても美しかった。

この時の光景は、心理療法を受けた時にする体験を想像させる。灯篭を手から放ったように、自分から距離を置いて自分をじっと眺めてみる。近くから、遠くから、見下ろし、見上げて。眺めているうちに、対象化した自分が動き出す。それをただ体験するとき、何かから解放され、何かを得ることができる、あの感覚。

セラピストの役割は、さしずめクライエントが灯篭を流す場を整えることぐらいだろうか。その場にやってくるかは、クライエント次第。どんな灯篭にするかも、クライエント次第。灯篭がどこに流れていくのかは、川に任せるほかない。

クライエントが思い思いに自分の仕事をして帰れるような場を提供できるセラピストになれているか、日々自分に問いかけて私の仕事に臨みたい。

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ロゴセラピーへの関心は高まっている?

静岡福祉大学社会福祉学部 専任講師
草野 智洋

今回は、日本で「ロゴセラピーへの関心は高まっているのか?」という私の素朴な疑問について述べてみたいと思います。11月に私は静岡県で一般の方を対象にしたロゴセラピーの講演を行いました。はたして人が来てくれるのだろうかと心配していましたが、申込み受付けを開始したとたん、あっという間に予約が一杯になり、その後はキャンセル待ちとして受付けさせていただきましたが、キャンセル待ちの方が多くなり過ぎ、しばらくしてキャンセル待ちの受付も終了させていただきました。(自慢話のようですが、会場の定員は40名程度の小さなところで、決して何百人、何千人の人が集まったというわけではありません。)

実は正直なところ、「人生の意味」などというテーマは、私を含めた一部の変わった人(すみません)だけが関心を持つことであり、多くの人はそんなことには関心がないだろう、と私は思っていました。少なくとも私がフランクルの思想やロゴセラピーを勉強し始めた頃は、同じような問題関心を持っている人は私の身近には一人もいませんでした。「どうしてそんなことを考えるの?」という反応がほとんどだったように思います。

しかし、時代は変わってきたのでしょうか?(「時代は変わってきました!」と断言するだけの自信は私にはありません。)社会的・経済的な成功のみを追い求めるのではなく、精神的な充足感や生きがいを大切にする生き方をしたい、という人が増えてきたのでしょうか?

もしそうだとすると、ロゴセラピーの役割は今後ますます大きなものになってくるでしょう。しかし、ここで一つ落とし穴があります。それは、私たちロゴセラピストにとって「ロゴセラピーを広める」ことが「目的」になってしまうことの危険性です。あくまでも、人々が精神的に充足した人生を生きていくことができるようになるための「手段」としてロゴセラピーがあるのであり、その「結果」としてロゴセラピーの考え方が広まっていくのだということを、忘れないように心がけていきたいと思います。

もしも日本でロゴセラピーへの関心が高まっているとすれば、それは少し皮肉な言い方をすれば私たちにとってのビジネスチャンスであるとも言えます。ですが、私は自分がお金持ちになったり有名になったりするためにロゴセラピーの勉強を始めたわけではなかったはずです。自分自身の人生のためにロゴセラピーを学び、それがいつの間にか、人に伝えたり教えたりする側になったというだけです。

これからも「手段」と「目的」を取り違えず、「結果的に」ロゴセラピーが広まればいいなと思いながら、自分に求められている課題の一つ一つに尽力していきたいと思います。(もちろん、あまり頑張り過ぎると疲れてしまいますから、良い意味で「適当に」、「程々に」やっていくことも忘れません。)

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「役割が変わる」ということ

ロゴセラピスト養成研修受講生・会社員
千葉 幸恵

社会に出て約30年が経つ。この間、二人の子供の出産前後の数週間を除き何かしらの職業に就いてきた。男女雇用機会均等法の施行、バブル期とその後。雇用形態の多様化と職場環境の変化。こうしてみると私は新しい労働環境の誕生と過渡期を見てきた感がある。若さと経験の少なさを許され乗り越えてこられた時期を経て、私はいま一人の職業人としてまとめの時期を迎えた。

世の中の変化はすさまじくそれに対応していく為には新しい情報が不可欠だ。しかし、以前は持っていた記憶力や瞬発力は弱まり変化の速度に負荷を感じる時がでてきた。そのような中で私は自分ができないことがある、あるいはできなくなったことがあると認めることは色々な面で悪くないな、と思うようになった。例えば少し上の年代の人々の変化への恐れの気持ちが理解できるようになった。初めての行動を前に体力を理由とするためらいを経験したのだ。

一方で私はこうした衰えをカバーするように長期的な視野での判断力、交渉力、忍耐力などが力を発揮し始めたのを感じ、興味深く思っている。

以前に在宅介護をしていて悩んだ時に出会った三好春樹氏の本の一部を思い出す。介護を必要とする人の能力が衰えた時にQOLをどう維持するか、がテーマだ。そこにはトータルで要介護者を見つめるヒントがあった。

おおよそ次の様な内容だったと記憶している。立方体の容積がQOLをあらわしていて、3つの辺はそれぞれ、能力・場所(環境)・時間(機会、回数)を示す。

例えば立ち上がることが難しくなった人には、介護者は椅子から立ち上がる(能力)運動を、トイレや食堂やリビング(場所)でそうしなければいけない状況(機会)を作り、この容積を小さくしないように工夫をする。

介護をしていて認知症が進み、できることがだんだん無くなり始めた難しかった時期、近くの公園まで散歩をして満開の桜の花を見てぱぁっと表情が明るくなった瞬間や昔話を繰り返し物語る時、あるいはお茶を淹れる、お菓子の包みをあける行為、そうした一つひとつがまさにその人の人生と成っていった。介護者としての私は、能力(興味)を探し時間と場面の設定の引き出しを増やすことに努めた。

自分自身の生活も時間と環境の工夫によって立方体は多面体へと変わっていく。私はこれが自己マネジメントに通じると思っている。

残念なことに多くの女性は女性であるが故の理由で、自分の持つ能力に気が付いたとしてもその自分を表現する意欲に目をつむることを幼い頃から長い時間をかけて身につけてしまう。だが私たちは自分の持つ能力や、能力が変わったことを自認しそれを正しくアプローチする楽しさを今こそ取り戻せるのではないだろうか?

能力が変化すること、それは社会のなかでの役割が変わるということだ。私は役割を自らシフトするという選択肢があって良いと思うし、役割を作り出す勇気を発揮できたならなお良いと考える。これは社会や組織の成熟に一役買う事になるかもしれないとさえ思う。

そんなことを考えていたある日、ニュースで孫を持つ世代の女性達が起業した便利屋さんを取り上げていた。家事や育児の全般、父子家庭の子供のお弁当作り、依頼家族との話し相手などを、人生のベテランの彼女達の細やかさとおおらかさでいきいきと働く姿が信頼され、依頼が途切れないそうだ。能力を発揮し社会での役割を果たす場所を得ることがもたらす幾つもの功績を如実に示しているトピックだと思う。そしてこれは女性だけの問題に収まらない。

ところで記憶力の衰える私はと言うと「記憶力は衰えない。衰えたと思ってその能力を使わないからだ」という説を聞きこちらを採用することにした。心意気はこうだがこれが加齢に伴う喪失の始まりであろうと気が付いている。こうして訪れた未知の世界は私の自己観察の新しいテーマに加わった。

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コラージュ作品展示

DGLE認定ロゴセラピスト安井猛教授(PhD)の指導のもと、日本ロゴセラピー&実存分析研究所主催による ロゴセラピスト養成教育研修、基礎理論及び方法実践論演習受講生による作品(実物 約53x40cm)

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春夏秋冬

弊研究所主催講座受講生・会社員
渡邊 弘毅

日本は、はっきりとした「四季」があり、地球の地理的にも恵まれた国と言われている。暖かくなり心地良く、前進する気持ちになる春。太陽が燦々と輝き、身体中から汗が噴き出し、清々しいと感じる夏。暑さから開放され食べ物が美味しく、心が落ち着く秋。そして、雪が舞い寒さに震え、どんよりとした雲の下でなんとなく気分が塞がる冬。この四つの繰り返しが日本では延々と続いてきたし、これからも続くであろう。

人生も四季のサイクルが継続するように、気分が高揚する時期や、憂鬱になる時期を繰り返し、時間が進んで行くように思える。これは自然界の流れであり、だれもそれを阻止することはできない。私が上記した四季における「感じ方」は、あくまでも私の感覚であり、一人一人が異なる感覚を持っていると思う。夏は暑いから不快であるとか、冬は空気が澄んで気が引き締まる・・・などなど。

私は、どちらかと言うと、自分の考え方を固定してしまい、何事もネガティブに捉える傾向がある。上記した四季への感覚もこれまで生きてきた感性が反映されている。「自分には冬がとても長く、春・夏・秋がすごく短い」と思い込むことが多い。自然界では、春・夏・秋・冬がある程度均等に訪れるように、「人生でも良い時期」と「悪い時期」がほぼ均等に与えられているはずである。なのに、冬がとても長いと感じてきた。40年も生きてきて同じ思考が続いてきた。本当にバカというか、体は大人で心は子供であるのが実態であると思う。その理由がロゴセラピーのセエミナーに通い出してからようやく分かり始めた。

私が気づいたその理由とは、(1)自分の殻に閉じ困って、殻の外へ出ていない。(2)他へ転嫁できない私の人生の責任を、生活環境が与えたと言い訳ばかり付けて来た。(3)自分に嘘をついて来たので、自信がないと感じてきた。の3点が主に挙げられる。この3点を改善しないことには、私にとっていつまでも「長い冬が永遠と続く」と考える。これらの改善策として、(1)今まで自分が苦手で抵抗を感じてきたコトにチャレンジすること。(2)今ある事実を認め、言い訳をしないこと。(3)自分の気持ちに正直になり、自分の範疇外(権限外)のことは気にしないこと。を実践することに決めた。恥ずかしながら、実践してまだ10日であるが、継続してゆくことを自分に約束した。

また、心の改善には体を使うことが密接に絡み、その節足点に「丹田(へその下約3寸に位置する部位)」を活用することを学んだ。社会人になって、極端に体を動かすことが無くなっていたため、先ずはウォーキングを始めてみた。すると、何かを行う際に「サアやるか!」と思う時に丹田に力が入るような感覚が出てきた。姿勢を正し、背を伸ばすときも丹田に力が入っているように感じる。精神を落ち着かせるための気功も丹田を活用しているらしいが、これは今後修練してみようと思う。

自分の考えを固定せず、ポジティブ思考にすることで、冬と感じる期間を秋や春へ、ひょっとすると冬が夏へと感じるようになると思う。ネガティブ思考をリセットして、0からのスタート地点に私は今立っている。

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「いのち」からの贈りもの

ロゴセラピスト養成研修受講生・主婦
盛一 美那子

去る11月22日夜半、我が家の愛犬ユエが12年半の生涯を終えた。その瞬間取り巻く世界が一変した感覚になった。以前、愛犬との別れを経験した方から「別れが迫った時は覚悟が必要」と助言を受けたのだが、この時ばかりは覚悟などは何の意味もなさない程、辛く悲しい思いだった。

迎え入れた時、手に収まるくらいの大きさだった彼は、生後2カ月で親・兄弟からはなされ、はるばる四国愛媛から飛行機で仙台に連れてこられた。千切った新聞紙を敷き詰めた買い物かごに入れられ、暗く轟音のする貨物室で過ごした数時間は、どれ程恐ろしかっただろうか。必死でカゴを引っかいたらしく爪の間からは血が滲み新聞紙も赤く染まっていた。小さな体でこんなにまで大変な思いをしたのだから、幸せに過ごさせてあげたいと思った。同時に命に対する責任も感じた。

犬に癒しを求め、飼いたいという夫と娘の3年に亘る切望により迎えることを承諾してしまったのだが、初めての経験なので少々不安はあった。だが、共に暮らし始めると動物の習性さえ理解すれば、あとは育児と大差ないと分かり、世話をすることを通してこれまでの私の子育ての在り方を反省することにも繋がった。

実際、しつけを巡って家族の意見が対立すれば、混乱した様子を見せ、たっぷりと愛情を注いで関わっていくとイキイキとした表情になっていった。小さな体で、とても大きな存在となっていた。2年程前に心臓病を患ってからは看護の手が必要になり肉体的負担も増え、更に酷暑や厳寒の時期は大変な思いもしたが、今になってみると世話を出来る命の存在が幸せをもたらしていたことに気づかされる。生き方が死に方にも通じると聞くが、ユエの生涯からもそのようなことを教えられた気がする。亡くなる前、4〜5日の間に、病前に接していた犬達や親交のあった人達に偶然会い最後の別れを告げる機会を持てた。ツラい症状になっていたと思われる3日前に娘が撮影した写真の表情は最期が迫っていたことなど感じさせない、まるで「希望」を見つめているかのような眼差しをしている。

その頃には夜寝る前に娘に抱かれパンパンに腫れたお腹を撫でられながら眠りにつくというパターンになっていたのだが最期もまさにその時だった。軽く咳込み、「ワォ〜ン」とひと声発し息絶えた。苦しまないで逝ってほしいと願ってきた家族の思いが届いたかのようだった。荼毘に臥す時は迎え入れた時とは違い、青空に犬の模様をした雲が浮かんだ絵を施してある棺に愛用していた毛布にくるまれ友人達が贈ってくれたたくさんの花々に囲まれ、天気がいい、ユエが大好きだった風の吹く日に旅立った。

その後、思い出の画像を囲み、家族で思いを語り涙したが、気持を整理しきるまでには至っておらず、時間が必要だ。かすがいであった存在を亡くしたことで新たに課題が生じ家族の関係を再構築しなければならない状態になっている。愛を示し使命を全うしたユエの遺影に目を向けると私も与えられた時間を大切に過ごしていこうと思う。「ユエ、我が家に来てくれてありがとう」やすらかに。

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「女性のための生涯塾」との出会い

弊研究所主催生涯塾参加者・NPO法人事務員
青木 淳子

初めて有爲子先生にお会いしたのは、2012年8月でした。
その時、いただいた御名刺の裏に「女性のための生涯塾グループ毎月1回」とありました。
「女性のための」…いいな〜 「生涯塾」…ますますいいな〜と、とても興味をそそられました。

お伺いしてみると参加できるとの事。
10月に、初めてオーロラビル605号室の扉をあけました。
始めに「坐瞑想と腹式呼吸」
次に「気功太極拳」
そして「学び」

最後に「編み物」(2013年11月現在は、おしゃべりの時になっています)

学びはとりあえず耳を開いていればいいので、まあその場はなんとかついていけるものの、編み物は数十年ぶり、坐瞑想と腹式呼吸と気功太極拳は、初めての体験でした。 運動が何よりにがてな私にとっては、一年たった今でも緊張のひと時です。(ほんとは、こころとからだを解放するひと時なのだと思うのですが…)
けれども、整えられた空間と空調、音楽、何よりお迎えしてくださる暖かい心に満ちた部屋は、とても心地よく、ほんの少しですが気功での気の流れを感じる事ができるようになり、うれしいひと時でもあります また、初めての者を受け入れてくださったお仲間に感謝しています。

考えた事と行動する事は別の事としてしまいがちな日常を振り返り、喝を入れられる時。
これまでもっていた価値観と違うものや、新しいものを知る喜び。
バイタリティにあふれ、次から次へと知恵と知識があふれてくる有爲子先生や、自分の考えをしっかりもっている女性たちとの出会い。
時には、どんよりと疲れた身体をなんとか運んでたどりついても、帰る時には軽くなっているのに気づく楽しい塾です。
このかけがえのない時を大切にしたいと願っています。
「女性のための生涯塾」に感謝!!

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ひとりぶつくさ -5- 初春の候

やすい うゐこ

2014年、平成26年が明けました。時は一刻も止まらず刻み続け、全ての生き物の上に太陽は輝き、雲は流れ、宇宙は巡り、生き物はそれぞれの居場所でそれぞれの営みに励んでいる。地球には恐怖の無人兵器までが造られ、痛ましい戦争は数々起り、自然の脅威も日を追うごとに大きくも多くもなり、犠牲者や被害者の数も甚大、癒す側も癒やされる側にもゆとりさえもなくなる昨日今日。人間は考える葦だと語られてきましたが、一体、どこへ向かって何を考えて生きてきたのでしょうか。今、とにもかくにもやらねばならないことに専念しながら、気持の奥深くでは何に向かって何を考えていれば、本当に生きていることになるのでしょうか。どうすれば自分が生きている証しになるのでしょうか?

毎年、年の初めには似たことを想いながら、今年も新年を迎えて数日後の今日、私は自分がせねばならないのだと自分で決めた処に落ち着いて、時の流れに乗って種々様々のことがらに対応し適応しながら動いています…。そこに、目には見えない、揺らがない何かがあることは自覚できます。それはおそらく日々刻々に私の人格の形成に重い役を担って今日までの道のりの傍らにいつも存在していた大いなる方の働きとでも言いましょうか。Wer unter dem Schutz des Hoechsten wohnt,der kann bei ihm,dem Allmaechtigen Ruhe finden. Psalm 91,1「誰でも極めて高貴な方の庇護の元に棲むなら、その人は全能の神のもとで安らぎを得るでしょう。詩篇91,1」(訳 やすいうゐこ)

千手観音様でも如来様でも良いのです。誰方(どなた)にもいつかは手を合わせる信仰心はおありでしょう。無信仰も一つの信仰心の形と私は思います。人は自分でも気づかぬ内に犯している過ちを悔い、許しを請う、その実践が必要なのです。心から許しを請うたそのとき希望に繋がる穏やかさに気づかされます。そこの処から再び真実の人生を誠実に生きることが出来るのだと私は信じています。ドイツの教会暦には例年11月第3水曜日は「悔い改めと祈り」として定められ祭日になっています。

信仰のことに言い及びましたが、私の仕事でもあるメンタリングやカウンセリング、コーチングの際には信仰をテーマに語ることはありません。それは人格の深みに関わる個人的なことですから。私にとって信仰は、幼い頃の偶然の出会いを機に育まれてきた事柄です。県境も後には国境も人種も超えて数々の交流を通して、教えられ考えさせられ多様に豊富な知恵を絶え間なく戴き今も鍛えられ続けています。だからこそ出会いに心から感謝しつつ、仕事には課せられた勤めの責務を果たせるよう精魂を込めるというだけのこと、と思うのです。深謝

迎春の節、この機会にアイルランドに古くから伝わる祷(いの)り(Irischer Segenswuensche)から一つを紹介致します。ページ右上、写真の中に此処ではドイツ語ですが添えられています。

全文訳 やすいうゐこ

あなたへの祈り

あなたの歩む道がなめらかに開かれていますように
風が背中をあとおしするように
太陽があたたかくあなたの顔をてらすように

神さまの護りの手があなたに翳(かざ)されていますように

あなたの人生での良いことなど貴重な想い出を、胸に感謝と共に秘めながら。

神さまのすべての賜物があなたの内に育まれ
そして それらがあなたを援け、
あなたが愛するすべてのひとの心に幸せをもたらしますように。

親しみのある思慮があなたの瞳に輝きますように、
深い霧の中から昇り
優雅にそして高潔に 静かな湖を温める太陽のように…。

神さまの力があなたを誠実に保ち
神さまの眼はあなたをみつめ
神さまの耳はあなたを聴き、神さまの言葉はあなたのために語られ、
神さまの手があなたを護られますように。

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あとがき

やすい うゐこ

年末年始休暇が過ぎ、日常が戻ってきました。2014度もお元気でご活躍ください。

さまざまな方面から、様々な関心を扱う原稿をお寄せいただきました。研究所の地味な活動はこのような貢献によることを思い、寄稿者の皆様に衷心より感謝申し上げます。

九州産業大学、富吉建周教授の「宗教とロゴセラピー」に関する論考を掲載できました。この問いの正当性をどう基礎づけ、担保するか。ロゴセラピー内部の、そして宗教学内部の問題、理論と実践、文化の問題等々の議論に火がつきそうです。

『夜と霧』の日本語訳が問題とされました。原著を損なうことになる。この他にも様々な問題が生じます。翻訳の長所と短所についてですが、これは「古典的な」問題です。

ロゴセラピスト教育研修方法論演習でのコラージュ作品を掲載しました。意識、無意識的な世界がありのままに展開されます。作品の相互解釈は療法技法の向上に繋がります。

今年度のロゴセラピスト教育研修は、第Vゼメスター「神経症的人間・危機介入におけるロゴセラピー」です。ご希望の方はお申し込みください。
http://www.logotherapie-japan.net/logo_therapist/index.html

(takeshi yasui)

『言葉と沈黙と』第8号も半年後、ほぼ7月頃発行予定です。募集原稿の御題は「時のしるしを読む」です。皆様からの御投稿を編集関係者揃って愉しみにお待ちしております。

弊研究所は、同じビル内に療法・カウンセリング室を昨年秋に開設しました。
落ち着いた環境が整いました。ご利用ください。

職場にいても家庭でも、おひとりさまでも、気持も身体も整えて、軽く、明るく、飄々と、あたたかく、それでいて真面目に考え、互いを信頼して語り合うことでしょう…。何歳になっても自分を育てることに興味と喜びを見出す…、生涯塾は弊研究所主催のグループ活動です。 時には参加者の御都合で、たまたま御一人だけということになっても開催しています。そんな時は大抵 セラピー的時間になりますがそれもまたよし…です。
まだ気も心も体も元気なうちに…なら、いまでしょう?!ご一緒に続けてみませんか? どなたでも歓迎です。

(uiko yasui)

【単価】
税込 ¥1050,−

【発行者】
安井 猛 (PhD)大学教授
日本ロゴセラピー&実存分析研究所・仙台 研究所所長
社団法人ドイツ国ロゴセラピー&実存分析協会(DGLE)公認ロゴセラピスト
ドイツプロテスタント教会・ヘッセンナッサウ(EKHN)認定パストラルケアラー

【住所】
〒980-0014 宮城県仙台市青葉区本町1-13-32(株)オーロラビル605

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