信ずることとこころを整えること
バプテスト仙台南キリスト教会における講演

2012年12月23日(日)

教会員の皆さん、今日は。
改めて、安井猛と申します。今朝は、礼拝に参加させていただきましてありがとうございました。また、皆さんの教会でお話する機会を与えていただきまして、このことにもこころから感謝申し上げます。

私は名取市の尚絅学院大学でキリスト教学や宗教学を教えております。なんとはなしに田舎に引っ込んでいるという感じで働いておりますが、働き始めて早いものでもうかれこれ十五年になります。さまざまなことを考えながら仕事をしているわけですが、学生にはできるだけ現在も将来も生き甲斐のある生き方を見つけてほしいと願っております。頭が良いとか、何かができるということはもちろん大事なことですが、落ち着いて、手ごたえのある、そして幸せな生き方を選んでほしいと願っております。

国民は経済的に落ち込んで、それぞれの仕方で出口の見えない生活を強いられております。そのようななかでそれぞれが工夫を凝らしながら、変化に対応できる生き方を見つけられたらよいと願っております。困っているときほど着実な生き方を見つけることが必要ですが、しばしばこの困っているという問題への対処の仕方がうまくいかないゆえに、ますます困った状態へ落ち込んでいく。このようなことはよくあることです。しかし、私たちはできるだけこのような生き方を避けたい。特に東日本大震災以後は信仰の力を借りて、忍耐強くなり、さまざまな生活条件の悪化にもかかわらず、というよりも生活条件の悪化をバネにしてますます運命に打たれ強くなりたい。

さて、今日の講演の題目は「信ずることとこころを整えること」ですが、このテーマに関する限りで私の経歴と仕事の一部をお話させていただきます。私はシャイなところがあり(?)、自分のことを話すのは苦手です。これまで皆さんの所へきたときなどもほとんど私のストーリーは話したことはなかったように思います。

私の人生ストーリーの本格的な始まりは、やはり若い時に聖書を学び知ったことです。それは二十歳前後のことでした。私の学生仲間の一人は教会に通っており、私を礼拝に誘ってくれました。教会は日本福音ルーテル教会でしたが、礼拝に出ること、聖書に触れることは私には初めてでした。通うなかで聖書がますます面白くなり、この書物を解き明かすことを私の課題としたいと思う程になりました、私のそれ以後の仕事と生活は、今日に至るまでこの課題と関わると言えると思います。日本の大学院を二十七歳で終えたあと、スイスのジュネーブにあるルーテル教会世界連盟という組織を通して、当時の西ドイツのマインツ大学大学院に妻と三歳になる娘を連れて留学いたしました。専門はプロテスタント神学という学問ですが、一所懸命それを学びました。この学びは楽しい経験でした。私はそのとき生まれて初めて学ぶことの楽しさを知ったと思っております。マインツ大学での学びは六年間続き、神学博士となりました。当時私は三十三歳でした。その後、二年間ドイツ・ヘッセン・ナッサウ州プロテスタント教会で牧師候補生として訓練を受けた後、ヘッセン州にあるキルヒベルクという二〇〇〇人ほどの教会員の教会で働きました。最初の二年は副牧師として、その後牧師として一九九七年までの十七年間働き、計二十三年のドイツ滞在を閉じて同じ年に日本へ戻りました。それ以後、先に申し上げましたように名取市の学校で働いております。

私はそこで人間心理学科に所属しております。このことは多分今日の講演の内容にとり重要だと思われますので、すこしだけそこでの経験をお話しておきます。二つのことがあります。一つは、すでに申し上げましたように私がそこでキリスト教学と宗教学、およびそれに関連する科目を教えていることです。日本近代史とキリスト教という科目も私の好きな科目です。明治維新以後の日本人の生き方とキリスト教の関係を新渡戸稲造と内村鑑三の生き方および書物を手掛かりに読み解く仕事は、私個人的には大事で、学生にとっても意味ある仕事だと考えております。封建時代から近代日本人が受け継ぎ大事にしたのは儒教だったというこの簡単な事実は圧倒的であって、新渡戸と内村がどのような仕方で欧米のキリスト教と関わったか。これは私にとって尽きない興味の対象となりました。

もう一つは、私の所属学科の名の示すように、学科は主として心理学に重点を置いております。この学校での勤務が経過するとともに、私はできるだけ心理学を学びたいと考えるようになりました。なぜかといいますと、学校へ入ってくる学生は心理学を志望しており、それに対処するためには自分もある程度心理学の素養が必要だと思われたからでした。このようなわけで、とくに私の好みに従って臨床心理学という心理学の一分野を自学自習するようになりました。いま思い返して、これは偶然ではないことに気づいております。私は牧師候補生として教育を受けていた時、礼拝や冠婚葬祭、学校での宗教教育および教会での堅信礼と並んで、牧会学を学習しました。この課目では牧師が信徒とどう向き合うかを学習しましたが、私はそこで半年ほど心理学の先生から心理臨床を学んだのです。彼はアメリカでアルコール中毒患者の社会復帰の仕事に従事したあと、故郷ドイツの神学セミナーで牧師教育に専念しておりました。このことが私の記憶にあったのですね。

このようなことがありまして多分、二〇〇四年の秋からだったと思いますが、六年ほどかけてドイツのチュービンゲンという町にあるロゴセラピー研究所に定期的に通いました。ロゴセラピーとはオーストリアのウィーン大学のヴィクトール・フランクル(一九〇五〜一九九七)という精神科医によって開発された心理療法で、それは通常、フロイトの精神分析、アドラーの個人心理学に次ぐ「心理療法のウィーン第三学派」と呼ばれます。私は大学の仕事の合間を縫って年に四回、合計二十数回、仙台とチュービンゲンを往復しながらこの心理療法を修め、それを教授する資格を得ました。そして五年ほど前に仙台市青葉区に日本ロゴセラピー&実存分析・仙台を開設して現在にいたっております。大学でキリスト教信仰や宗教一般のことを教え、研究所でロゴセラピーの学習および訓練を提供しております。

なぜ私がここまで私の経歴をお話したかと言いますと、今日の「信ずることとこころを整えること」という話の題目と関連するからです。「信ずることとこころを整えること」はキリスト教会の信仰の事柄であると同時に、教会とかキリスト教とは直接かかわらない事柄、人間である限りの人間の事柄でもあるからです。この題目には、つまり二重のことが含まれております。

一つには「信ずることこころを整えること」は直接、私たちの教会生活に関わります。私たちは毎週日曜日に教会に集まり、聖書を読み、讃美歌を歌い、神様に繋がることを確信しながら教会生活を送っております。これはキリスト教徒としての生活の中心となります。この中心がなければ家庭生活も職業生活も、そしてまた各個人としての生活も立ちゆかない。聖書に助けられ、信仰する者たちに支えられながら生きているのです。さきほども説教の中で私たちは、イエス様が私たちの世界へこられたのはなぜかという説明を聞きました。それは私たちの住むこの地理的な場所、そしてまた私たちの心の場所の中にある闇を照らし出すためだというメッセージでした。それは私たちのこころを支え、豊かにし、整えてくれます。教会における信仰と交わりにはそのような力があること、これを明らかにすることが私の講演において言いたかったこと、そしていま確認したいことの前半です。

さて、私は「信ずることとこころを整える」という題目の中にもう一つの事柄を含めたいと思っております。教会のミッションは神の言葉を世の中へ伝えることの中にありますが、それにはある意味の限界があります。教会は人間生活のすべてのことに関わることはできません。確かに、神様の言葉そのもの、神様ご自身は全能です。私たちはそう信じております。神様には何でもおできになる。しかし、神様を信ずる私たち人間には限界があります。私たちの信仰がどちらにむいているか、私たちがどのような力を教会の内と外の人々に示すことができるか、これを私たちはあまりよく分かっていない場合があります。私たちはしばしば、自分の心の生活における病と健康を正確に気づけない。信仰の深さ、浅さも的確に判断できない。それは信仰を守っている人々自身が決める以外にはありません。いま私はドイツで働いていた頃のことを思い出しておりますが、そこの教会では十八世紀から十九世紀の中の敬虔主義者たちと呼ばれる人々は教会の中で信仰のみならず、日常生活におけるこころの病を問題にして人々のためにこころの配慮をしたと言われます。そのようなことは現在の日本においてはないのだと推察しております。キリスト教会のみならず、他宗教の教団においてもそうだと思います。日本では心理的健康に責任を負う職種は心療内科のお医者さんたちと心理療法家ということになっております。

実は、私はドイツで牧師をしていたころの一時期、私の職業に関してある種の歯痒さを感じたことがありました。牧師職はドイツ語では別名、ゼーレゾルガーといいます。ゼーレとは日本語ではこころと同義語です。ゾルガーは世話するあるいは配慮する人という意味です。それ故、牧師はこころの世話人という意味になります。私は、ゼーレゾルガーをこのように文字通りに受け取って、牧師職につく人は多少とも心理療法をおこない、この点で他人のこころを整える役割ももつと思いました。しかし、そうではなかったのですね。牧師の仕事は教会全体の運営を行う、礼拝その他の行事を行い、信徒の信仰を強め維持し、そしてまた世の中へ向けてメッセージを送ることです。神様の言葉を述べ伝え、洗礼と聖さん式を行うことが牧師の主要な仕事です。聖書を解き明かして誰かのこころのケアをすることがあるとしても、これは心理療法家のようにこころを治療することとは異なります。

牧師は説教の中でこころについて語りますが、それはどこまでも一般的レベルにおいてのことです。説教はそれで十分役割を果たします。信徒の良心に語りかける、愛すること、信ずること、望みを捨てないための智恵と訓練を提供する。これは人間存在の構造から言ってこころ以上のランクを持つ精神的なことに関わります。牧師はそのことを通してこころにも語りかけます。皆さんの教会においても牧師のみならず、信徒さんの中から訓練を受けて、牧師不在の時に説教ができて、それと関連して原則的に信徒のこころを配慮し、信徒のこころを整えることができればよいですね。

それに対して心理療法家はこころの病を治療する、セラピーする役割を引き受けます。クライエントのこころの病が顕著ではない時には、心理療法家はクライエントのこころが危険な状態にならないよう気を配ります。心理療法家はどうしたらこころの危機予防ができるかをクライエントに伝えてあげます。クライエントが危機の中にいるなら、療法家はクライエントの相談に乗り、どのように危機から出て、健康になれるかを考えます。クライエントのこころを生きやすい状態へ戻すことを試みます。心理療法家というのは本質的人間というよりはむしろ、本質から疎外された人間、その疎外状態が習慣化され、固定された人間とかかわり、それを治療します。

実際、私たちはだれでも自分で自分を袋小路に追いやり、動きのとれない状態の中にいることがあります。何かのきっかけのとき、「おかしいな」と思ったら、やはり誰かの助けを借りたら良いと思います。すでに危険に陥ったな、どうも生きにくくなったなと思ったら、専門家に相談するとよい。皆さんも自分あるいは周囲の誰かが例えば、四六時中、不安でたまらない、不安のために行動が極端に制限されているという状態を知っておられると思います。あるいはいつも身構える、攻撃的になる、このようなあり方から抜けられない。さらにまた苛立ちも一度に爆発するかもしれない。このような一定の症候のゆえに自分が自分の主人公ではなくなっていく、自分で自分の生き方を決めることができない。自律性がなくなっていく。さらにまた退屈であり、それが耐えがたい。無意味あるいは無力感がいつもつきまとう。虚無的な生き方を選んでしまっている。他にも例えば拒食症がる。すべてこれらの症状は神経症という概念でくくられますが、いずれも放っておけない症状です。心理療法家はこれらの症状からの回復に関わります。

このほかに例えば統合失調症と呼ばれる精神病患者が苦しい生き方に陥っております。静かで、落ち着いた生活ができる時とそうではない時がある。このリズムを制御できないので、静かで、落ち着いた生活の時は仕事ができるけれども、いつできなくなるか分からない。だから就職することをためらう。このような方たちがそれなりに工夫しながら、苦悩から緩和されて生きられる配慮もします。精神科医は薬物を使いますが、心理療法家はそれを使いません。

私は以上のように心理療法家としての仕事から幾つかの例を紹介いたしました。この講演にどのような題目を与えるかを尋ねられた時、私は「信ずることとこころを整えること」について話したいとお答え致しました。そうすることにより、私は皆さんの教会の求道者、信徒そして牧師さんたちのみならず、普段教会と関係のない人々にも語りかけたいと思ったからです。私たちの生活の風景を心理療法の観点から描写できます。私たちは、誰にせよ、自分ではそれと気かつないまま一定の病的な方向へ進んでいることはあるかも知れません。私はこのことに注意を向けたいと思いました。皆さんは私に、それでどうなの?と尋ねられるかもしれません。

もちろん、私は、人間はみな狂っているとか、世の中すべて間違っているということを言いたいのではありません。そうではなくてむしろ、時々静かになって、あたかも他人のこころの風景を眺めるかのように冷静に自分の心の風景を眺めてみるよう試みることは必要かもしれない、こう思うのです。なにか気になることがあったら「それは何故だろう」と問うことができたら良い。そのようないわば第三者の白けた、冷静な立場を取ることを学ぶ、これができたら良い、と思うのです。なにか否定的なもの、多分病的かもしれないと思われることに気づいたら、それと率直に取り組む必要があるかもしれない。この意味で否定的なものから肯定的なものへ、病的なものから健康なものへの転換を成功裡に果たすためにどうするか。このことを問い詰めていく姿勢が重要になります。そのなかで自分の問題から距離を取ることを学んでいく。距離を取り、そして辛抱強く自分の身体に沁みついた生き方、考え方を超えて行く。そしてこのことを行うために一見まわり道のように思われるけれども改めて、自分は一体何に価値を置きながら生きているのだろう?私にとって生きることの意味は一体どういうものなのだろう?と問うていく。他人には全然かかわりのない、自分だけの世界で起こる生き方を模索していく。

ロゴセラピーの創設者としてのフランクル先生については我が国においてもいまは比較的よく知られていると言っていいのではないでしょうか。特に、昨年の大震災以後、多くの人々はフランクルの『夜と霧』(みすず書房)に手を伸ばしました。ロゴセラピーは神経症に対処するための技法を用意しますが、その中にはフランクル自身の開発した技法と彼の弟子たちが開発したものがあります。技法の根本にある考え方を紹介するなら、それは生きることには意味があるという確信です。生きると言いましても、一般に生きることを指すのではなく、その都度一定の歴史的具体的な状況において生きている人間のその都度一定の歴史的具体的な生には意味がる、その都度意味を与えられていない生の状況は一つもないという確信のことです。私共歴的具体的人間はこのような確信を深めていくと、私たちそれぞれの歴史的具体的人生の中へどんどん入って行くことができます。ヴィクトール・フランクルにとってこの意味で自分の人生の中に入って行くこと、選び、行為すること、この意味で生きることは非常に大事なことになります。

それではキリスト教の信仰とはどのような信仰なのだろう。この問いに対して様々な答えがあると思いますが、それは神様の永遠の言がイエス様という人の中において肉体を取ったとのいう神信仰です。それに対して、ロゴセラピーの根本には人間がその都度生きる状況の中にはそれを生きる意味、それによって先へ進むことのできる意味が存在するという信仰、つまりは意味信仰があります。この意味信仰は相対的にではありますが、宗教から区別されます。神様の言がイエス様において肉体となり、私たちの住む世の中に宿られた、そして十字架の死に至る苦難と愛の生を全うされた。これがキリスト教信仰ですが、ロゴセラピーの意味信仰はそれと関わると同時に区別されます。このことを踏まえながら誰かがキリスト教徒であり、同時に意味信仰を持つことも可能です。私のロゴセラピーの先生、クルツ教授は意味信仰は突き詰めると神信仰へと通ずるといいましたが、私もまたそういってよいと考えております。

さて、すでに暗示しましたように、フランクルは意味の実現は価値の充足を通して可能となるとします。彼によると、価値を充足することは意味実現のための通路となります。フランクルによると、充足されるべき価値として創造価値、体験価値そして態度価値という三つの価値があります。皆さんはこのことを多分、どこかで聞き知っておられるかもしれません。そのようなことがあれば、それを自分のためにも他人のためにも使うことができることは重要なことだろうと思います。

創造価値とは、何かを作るとか、成し遂げることによって充足される価値のことです。創造するとは、仕事を通して何ものかを生み出すことです。この何かを生み出すということは、それをできない人にとっては神業に等しいこととですが、それができる人はそれをするとよい、それをしなければならない。人間は働くことによりこの創造価値を満たします。このことによって生きる意味を実現できる。このような観点から見ますと、十分な仕事場がなく多くの人々が失業するという社会は是非とも改善しなければならない。働ける社会は意味実現との関連においても、否、まさに意味実現との関連において重要だということです。

次に、フランクルは体験価値を語ります。誰もが働くことができるとは限らない。働くためには職場が要るばかりではなく、強い身体、専門知識そして技能が必要になります。しかし、何らかの理由で働けない人は絶望するには及ばない。働くことができなくとも、他人が作ったものあるいは自然が与えるものを享受することはできます。自然の美しさ、他人の作った芸術作品や音楽を享受できます。男と女は愛し合える。働けなくても、自分で何かを作れなくても、すでに存在しているもの、あらためて作る必要のないものを享受する。男性であれば女性を、女性であれば男性を愛する。そのことによって価値を満たせます。このようにして享受すべきものとして存在するものを享受することも価値の実現となります。

三つ目の、そしてフランクルによると最後の価値は態度価値です。働けず、しかも何かを享受することもできない時、それでも人は価値を実現できるとします。人は事情に合わせて態度の取り方を変えることにより、困難な状況と折り合えるのであり、このことはフランクルによると価値あることです。受け取ること以外になにもできないことに対する態度を工夫することにより、なにもできないことを克服することができます。まさにただひたすら耐えることにより、耐えることができるという価値をさえ積極的に作り出すことができると言うのです。忍耐強く苦悩と折り合いをつけながら、まさにこの苦悩を超えることはフランクルによると価値の実現、最高の価値の実現にさえなります。苦悩すること自体からくる力によって苦悩することを超えて行く。フランクル先生はこのこのことこそ「成長すること」に他ならないとしました。

フランクル先生によりますと、これら三つの価値のいずれかに固執し、それを絶対化することはできません。むしろ反対にこれら三つの価値を自由自在に使いこなす必要があります。なぜなら私たちの生活は時々刻々変わります。それに応じて価値充足の形も変わります。フランクルはこのことを「価値の融通性」という概念で言い表しました。人間はどのような状況にあるにせよ、これら三つの価値充足という通路を通って意味を実現します。人間はもはや絶望を知らない。具体的な状況においてその都度自分だけが実現できる意味は彼に与えられ、人間はそれを体現し、危機を乗り越える。人はこの意味信仰により「こころを整える」ことができる。この意味信仰は誰にも、人間である限りの人間にとって可能だと言います。

他方、毎年、クリスマスがきます。キリスト教徒はイエスというお方を通して世の中へ入ってきた神様の言を迎え入れ、信仰を新たにします。罪と死の影の中にある生活の中に入ってきてくれた神様の言を聴き、それを世の中に証ししてゆきます。しかも、巨大地震と津波と放射能汚染を経験したこの世の中に証ししていきます。フランクルは彼の心理療法をロゴセラピーと名づけましたが、この名の中の「ロゴ」は新約聖書の『ヨハネによる福音書』第一章の冒頭からくることを意識しておりました。この聖書の箇所において語られるロゴスすなわち言(ことば)は周知のように、被造物の存在する以前に神のもとに存在していて、それは神そのものだったといわれます。ロゴスすなわち言は被造世界のできたときには、被造世界の創造原理として働きました。そしてそのあとも万物保存のための制御原理として支配していました。そしてそれは時満ちて人類の歴史のある一点においてイエスという一人の人間としてお生まれになった。フランクルはユダヤ教徒でしたが、彼はヨハネ福音書の著者と共に、そしてまたキリスト教の教理と共にこのように考えておりました。

フランクルはさらにまた、ロゴスすなわち言は同時に精神あるいは意味を意味し得ることも知っておりました。しかし、彼は彼の言う意味概念を、すでに私たちの見たように、人間が彼の人生における状況を引き受け、それを克服する仕方との関連において理解しておりました。すなわち、人間は一定の、その都度一度限り状況において価値充足を通し意味を実現すると考えておりました。このような意味概念を、フランクルは「人生そのものの意味」とか、「宇宙の存在の客観的意味」という意味で使いませんでした。フランクルの言う意味でのその都度の状況の中にある人間の生き方の意味は最終的にこれら二つの意味に通じて行き得るけれども、彼はこのことをロゴセラピーという心理療法の不可欠の条件とはしませんでした。このことはフランクルの逝去後発見され、彼の逝去十周年記念の際に公表された『神探求と意味の問い』(二〇〇五)という本のもととなった原稿からも明らかです。

私はキリスト教神学者および牧師として、私の告白するキリスト教信仰を少しも否定しないでこのようなフランクルのロゴス理解を共有できると考えます。ロゴセラピーを構成する決定的概念である「意味」につきましても、それは人間がただその都度置かれている状況に応じて為すこととの関連においてのみ使われ、この言葉にそれを超えた重荷はフランクルによって負わせられておりません。意味は人間がその都度置かれている歴史的社会的に具体的な状況に制約されて実現する何ものかとして、純粋に人間の状況の出来事のこととして理解されております。そのような状況との関連における人間にどのような生きる意味が実現されるべく用意されているか、どのような意味がなお彼に実現可能として残されているか、意味の選択可能性が限りなく制限されていく中で、どのように自分を変えていく可能性が残されているか。これらの意味探求において意味は宗教や文化に依存せず、宗教や文化の違いを超えて使用可能と考えられております。そのことはヴィクトール・フランクル自身が考えていたことでありますし、また彼が日本の大衆に受け入れられ続けられた理由だと思います。

教会員の皆さん、キリスト教におけるロゴスとしてのイエス信仰とロゴセラピーの意味信仰との関係についてできるだけ分かり易く説明することを試みました。「信じてこころを整える」という題目に関連して、ヴィクトール・フランクルは一方でキリスト教会の神信仰と、他方でロゴセラピーの意味信仰は接合可能であると考えたと理解されるのですが、私はそのことを皆さんに分かり易くお伝えできたでしょうか。

それに致しましても、なぜ、私たちは私たちの神信仰はそれなりにうまくいっていると思っているのに、私たちの心理的生活は時としてひどく乱れており、あるいはまたぎこちないことを認めざるを得ないのだろうか。これはしかし、ひょっとしたら私たちにとってよいことであって、決して恥ずべきことではないことかもしれないとも思われます。なぜなら、私たちには向上心があります。神信仰、一般的に言って精神的なこととこころのことがどんなに近くなって、両者が一つになったとしても区別はあるのです。その区別は時として葛藤や失望としては残りますが、それを私たちは好奇心と向上心を使って埋めようとするのです。これはとても人間的で、素晴らしいことでもあります。成長は限りなく見込むことができます。好奇心と向上心は、それらがどんなに小さいものであっても、真理を求め続けます。それらはそれら自身においてではなくて、まさにそれらが対象とするもの、真理をのもののゆえに不滅であり続けるのだと思います。

ご静聴、ありがとうございました。

* 講演は正確さと分かりやすさを期して、幾分加筆し、訂正いたしました。

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