言葉と沈黙と 第13号

2018年7月

付録「一日生涯塾」特集

研究所へ連なる親愛なる皆様へ

研究所に連なる皆さん、お元気にしておられますか?

いろいろのことがあって、忙しくしておられるかと思います。ある人々はご家族の世話で忙しい。他の人々は家族のことはそんなに気にならないけれども、自分のことで忙しい。あるいはまた自分はどんなことがあっても忙しいとは感じない。これもまた一つのあり方ですね。何が理想なのかはよくわからない。ある時は暇、他の時は大忙し。平均して何とかやっている。これでいいのかな?なんて考えている方もおられる。ひとそれぞれで、どのような生き方をしていても、或るひとつの生き方を選んでいるのですから、そしてまたそうするように人生の方から強いられているというのが実情ですから、よいもわるいもないと言った方がただしいかもしれない。それが、ありのままということでしょうか。ただ淡々と為すべきことを為している。しかし、為すべき事もなさないで済ませている。私はといえば、こんなところかなと 初秋の陽射しに包まれながら思ったりしています。

私は北海道の森という町に生まれ、高校が終わるまでそこに住みました。そのあと北九州市、広島市、福岡市に大学に籍を置いて住み、二十七歳のとき家族と共にドイツに渡りました。何度も考えてみたのですが、自分でも何故そうしたかはよくわからなかったというのが実情でした。事実は、五十歳になるまでかの地に滞在したことになります。多分、私の故郷の家族はひどく心配したに違いないと今は思いますが、当時、私はそのようなことは思いつきもしなかったのが本音です。

なぜかはよくわからないのですが、何かを必死になって求めていたということなのでしょう。ドイツの大学で学位とプロテスタント教会で働く資格を取り、帰国するまで牧師として働きました。かの国のさまざまな人々のさまざまな人生に参加することを許されたのですが、この経験は現在でも私にとって貴重な経験であり続けています。ドイツでも、日本でも人は生きている。いろいろなことを人生から学びながら生きている。 私が帰国して以来大学に勤務していた時も、ロゴセラピー研究所を運営する今も、このことは私の感覚となっております。ただ為すべきと思われること、つまり人生そのものからの課題を果たしながら一日一日を生きること。人間にとっては、これで十分であると思ったりもします。いや、十分すぎていて、果たせていないかもしれない。

私はときどき本屋に行き、良い本を見つけたら大方は新書本なので買うことにしています。最近も良い新書本を二冊見つけました。1冊は山内志朗という大学教授の著書です。半年ほど前に出版された『目的なき人生を生きる』という本の中に彼は次のように書いています。

「目的がないとはどういうことなのか。目的は途中で自発的に現れてくる。目的がこのように生まれてくるものとすれば、目的を達成して、目的を失った索漠たる時間を持てあますことなく過ごすこともできるようになる。自生的目的、つまり、おのずと生まれ、目的そのものが目的自身を育てるような目的しか人生の目的はない」 ポイントは引用の最後の文にあります。真にその名に値する人生の目的と言うべきものは、「おのずと生まれ、目的そのものが目的自身を育てるような目的」である。これは的確な人生の目的の定義づけではないのか。人生の目的というものがあるとすれば、それは「おのずと生まれる」ような目的でなければならない。「私」の願いによって汚されないような目的のことだという。それは「目的そのものが目的自身を育てるような目的」のこと。人生そのものがその実現を人に課する目的でなければならない。「私」の「恣意」を許さない目的のことである。人生の人間に課する目的そのものが先、私の願いや意志は後、この先後の区別は歴然としてあるということだろうと思います。

もう1冊の本はネルケ無法という禅僧の書です、彼は2017年、『今日を死ぬことで、明日を生きることができる』という本を出しました。ネルケ無法はドイツ人で、もとキリスト教徒(プロテスタント)だったが、現在は曹洞宗の住職をしている。筆者は彼ともかれこれ28年以上も前に知り合いになりました。彼は言及した本の中で次のように書いています。

「今を生きる」ということは、「今日が自分の最後の日になるかもしれない」と思って生きるということです。そうすることで、今日という日を、自分の人生の中で最善な一日にすることができるでしょう。
もし最善の一日ではなかったとしても、それなりに自分で頑張ったならばそれでいい。次の日こそ自分の最後の日、次こそ最善の一日にしようと思えばよいのではないでしょうか。ですから、過去を振り返り、過度に後悔する必要はありません」。

ネルケ無法はこのように「今を生きる」と言う彼の信条を説明しています。今日という日が自分の人生の最後の日だと思って生きよ、このことを理解するなら、それは「死を受け入れることにもつながる」と言います。このことはネルケ無法の確信となり、彼はそれをわれわれ日本人に解き明かすことを彼の課題としたのです。これはすごいことですね、彼にとって外国人に真理を説いているのですから。このように信仰の上での確信は民族の区別を超えるのであるから、ネルケ無法はわれわれ日本人のためになにか偉大なことをしているのだと、ありがたく思います。

山内志朗にしても、ネルケ無法にしてもいわば人類に向かって、それゆえにまた日本に住むすべての人間に向かって救いの知らせを述べ伝えているのだと思います。
記 安井 猛

ドイツ国ヘッセンナッサウ州プロテスタント・ダウブリンゲン教会
子供たちのクリスマス祝会劇

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2019年度3月第1金曜日 世界平和を祈る女性デー

2019年世界平和を祈る女性デー
ドイツカトリック教会準備委員会提供 2018年製作

2018年、北アイルランドの世界平和を祈る女性デーは75歳を迎えました。
2019年、ドイツの世界平和を祈る女性デー(WGT)は70歳になります。

世界平和を祈る女性デー 祈りの紋

2019年度主催国からの主題画

2019年3月1日金曜日に、スロヴェーニエン(旧ユーゴスラヴィア)から、全世界の人々と共に、世界平和を祈る礼拝を開催します。
主題聖句「さあ、おいで下さい、準備は整いました。」
ルカによる福音書14,13−24

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父の日に寄せて

会社員
千葉幸恵

本年もいよいよ暮れるモードに入っていますね。年が明ければ人生の一部を過去の中へ納めることになる。様々な思いが去来していると思います。

若い頃には全く気が付かなかったことなのだけれど、最近、父の凄さを思うようになった。きっかけは、私自身が年齢からくる体の変化を職場で感じるようになったことだ。視力・聴力は衰えて、見えにくくなったし聞き直すことが増えた。新しいことを覚えるのに今までよりも時間がかかる…なのに世の中の変化に応じて会社のシステムはどんどん変わり、それをなんとか乗り切ったと思ったらこれからの時代は私たちの仕事をAIがやると言う。また変化の波が来るってことか…。

あれれ?これで定年まで仕事ができるのか???…社会人の先輩が当たり前のように定年退職を迎えたのって、もしかしたらすご〜いことなんじゃないのか?? そういえば、身近に一人、いたじゃないか…!
と、言う訳で私の父である。

彼は団塊世代、一つの会社を定年まで勤め上げた人だ。長い会社員生活、何もなかった訳がない。私が察することができるだけでも、青年期の高度経済成長期を経て、働き盛りの壮年期には"24時間闘えますか"なんて言葉が生まれたバブル期とその終わりを経験している。アナログな紙ベースの仕事方法からコンピューターへの突入と適応…今の私が遭遇している状況に似ている。大きな変化を何度も乗り越え、家族の為に黙々と仕事をし続け職業を全うした。そのことだけでも父の人生は十分な功績だと言える。

定年後の彼の生活ぶりがなかなか振っている。歳を重ね大変なこともあるだろうに、母亡きあと一人暮らしをやってのけている。季節や体調に応じた工夫をして、ほぼ毎日散歩をする。地下鉄の駅一つ分の往復を軽々とやってしまうのだから驚きだ。年相応に病院を掛け持ち(?)し、几帳面な父らしく薬の管理もしっかりしたものだ。若い時に少し取り組んだクロスステッチ刺繍を日課にしてこつこつと製作作業をしている。その様子を見た私の妹の嫁ぎ先のお義母さんも同じ刺繍を始めた。男女問わず働き続けるこれからの時代、定年後の暮らしのあり方が人生の前面に出てくることもあるかもしれないが、父の「できることは自分でやる」「健康管理と体力の維持をする」という自然体の生活ぶりを見ていると、大したものだと思う。今は社会との接点の持ち方を考えているようで、これからも色々と体験談を聞かせてもらおうと思っている。

会社勤めが終わることは特別なことではなくて私たちの人生は会社を離れたところにまぎれもなくあり、定年は人生のなかの出来事の一つに過ぎないと父を見ていて思う。元気なうちは一人で頑張るという父なので、そのような生き方を示してくれることに感謝しつつ今日も私は自分の仕事と趣味にいそしんでいる。

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最近見つけた面白いこと

青木淳子

仙台に来て20年近くやっていること、路上生活者支援のNPO活動とその事務局の仕事があります。
そろそろ世代交代も必要だと思っていた矢先、「やりたい」という人が2月に現われました。
しかし、小学3年生、幼稚園年長、2歳の子どものある女性で、今年は、活動の現場に来れないとの事。3年間くらいのスパンで仕事を移行できればと、少しずつ仕事を委託することにしました。
一緒にやりながら仕事を教える・・・だと伝えやすいのですが、それが叶わないならと、マニュアル作りをする事にしました。

私に教えてくれる人はいなかったので、自分で学び、相手機関や担当者との関係性の中で培い、長い間自分一人でしていた事を文章にまとめるのはとても面倒に思えて、なかなか取り掛からずにいました。
しかし、年度末が近づき、取り敢えず初回に会う日を決め、締め切りができたことで「えいやっ」と踏ん切りをつけました。

まず、理念(何のためにやるか)と目標を書き、目的遂行のためにやるべきことを書く。
次に、その段取り。そして、いろんな場合に対応するためのノウハウ。こうなった場合にはああ、ああなった場合にこう・・・と次々と状況が浮かんできます。
現場を経験したことが無い方に、どうしたら理解してもらえるだろうか・・・頭の中でぐるぐると言葉が巡ります。
書き始めてあっという間に3時間、4時間が過ぎました。
私がじっくりパソコンに向かうのは夕食後です。
「もう、やめないと脳が起きっ放しになって朝まで眠れなくなってしまう・・・」と止め、翌日に。
パソコンに向かっていない時も、言葉を考え直したり、いろんな場面とその対処方が浮かんだりして、A4用紙数枚のことなのに・・・なんだかんだで数日かかりました。
そんなマニュアルを3つばかり作って仕上げた後は、なんとも言えない充実感がありました。
「あら!!私、マニュル作りが好きかもしれない・・・」

私が作ったマニュアルをどれだけ使ってもらえるかはわかりません。私にとっては「良し」でも、不十分かもしれない。そして、私より、もっと良いやり方を作り出すかもしれない。もっとパソコンを駆使して、スムーズに簡単に出来るのかもしれない。人によってやり方は違うだろうし、自分なりの仕事を作って欲しい。
人を経ることで磨かれていくのがマニュアルなのだろうと期待しつつ、年が明けたら次のマニュアル作りに取り掛からなければ・・・と、楽しみながらちょっと重たい気持ちにもなっているところです。

また、先日、「ちゃんとマニュアルと仕事のチェック表も作ったのに、落ちがあってね」と生涯塾の仲間にこぼしたところ、「3回は言ってあげなきゃ」と言われ、「なるほど」と納得。

なんだか私、偉そうに言っていますが、世代交代を考え始めたのは「うっかりミス」が出始めたから・・・。そしてスッポリ記憶が抜け落ちることがあって、「あれ?これ前にやったよな」と書類を繰ると「あれっ!やってるよ〜。いつしたんだっけ?!」と仕事の危うさに怖くなったからなのです。

ふと気がつけば、マニュルを作るまでもないような小さなこともいっぱい抱えてしまいました。この20年間、走り抜けてきたように思いますが、「小さなNPOで、その人の人生を抱えるような人の雇い方は出来ない」と言い訳し、後継者を育てることができなかった事を反省。
「あと、2〜3年で重荷を降ろしてのんびりしよう〜〜」と、生涯塾の皆さんには「え〜っ!やめて何するの?他にしたいことはあるの?」とハッパをかけられそうだなぁと思いつつ、ゆるゆると今を頑張っています。

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研究所と私

S.I

『夜と霧』の読書会に、一日の仕事を終え駆けつけると、研究所は処狭しと参加者が集っており先生の話に耳を傾けている。『夜と霧』については浅い知識しかなく、読書会形式の学びが初めてのことだったので、非常に緊張して参加していたことを覚えている。オレンジ色の照明に包まれた参加者たちの顔は神妙で真剣そのもの。私も一気にその空気に入り込んで、胸が痛む話についていったものだった。強制収容所で人々が味わった極限の心理状態を先生の語りを通じて追体験したことで、人間についてもっと深く知らなければならないと思った。

あれから9年。人が人として生きられない状況は、いくらでもあることがわかった。国、企業などとのパワーバランスにおいて、人間としての価値を下げられている人は多数いる。ルールを守ることを教えるが、ルールを批判する能力を育てない国に生まれたことが悔やまれる。それを補ってくれたのが研究所のように思う。

セラピストの仕事をしていて、クライエントが抱えている問題は組織的、社会的な問題でもあると痛感することが少なくないが、やはり個人の問題として批判なしにすべての外的要求に応える人へのアプローチが個人療法においては求められる。そういう人は、上昇志向の強い仕事人間で社会的には成功している場合があるし、あるいはいわゆる良い人、良い子であったりもする。人生の方向性を喪失し、自分をなくしていることから目を背けている人にロゴセラピーが放つ問いはきっと厳しく温かいものとして届くはずだ。また、ロゴセラピーでは、精神医学的な診断がつくいわゆる心の病を持つ人にもそうでない人にもある「精神」を概念として規定していることが特徴であると理解している。他の例えば精神分析においては、心理療法はクライエントの心の健康な部分と協働して進めていくとしている。大変理論的ではない解釈になってしまうが、ロゴセラピーではクライエントの健康さにもっと信頼をおいているようなニュアンスが伝わってくる。心の病を持つ人への偏見を取り払うには、ロゴセラピーの考え方は役立つのではないかと思う。

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一日生涯塾から

いわさきちひろ みつめるひとみ
絵本 わたしがちいさかったときに

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コラージュ創作品

M.M.

Y.C

F.M.

M.S.

M.S.

J.A.

C.S.

M.S.

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LIEBE

やすいうゐこ

睡蓮の絵で有名な画家のクロード・モネは ルーアン大聖堂の絵を30点描き続けていたといいます。大聖堂の真向かいに今も在る仕立て屋の2階の一部を借りて1892年〜1893年にかけて朝の光、昼の光、夕刻に日が傾く時刻の大聖堂の姿を光と影で描いていたのだそうです。
「光とは何か、光から生まれる色とは何か」陽の昇る前、早朝の風景の中に出かけ、歩きながら考え続け、毎日まだ何か発見出来ないものを追いかけている、と友人に語ったそうです。
毎日何かを追いかけているのはモネに限ったことではないようにも思います。人は皆、なにか、心落ち着けるものを求めているのかもしれない・・・と思います。

先日ある集会で、突然、50年近く共に暮らしてきた連れ合いが「うゐこって一人ぽっちの人だよね」と語りかけてきました。「?・・そうかな、いやぁそうかもしれないねぇ」と答えはしたものの、これまで寸時たりとも自分を一人ぽっちだと想ったことはありません。なんでだろう・・・、わかりません・・・。この不思議な会話はその場で続くこともなく消えてゆきましたが、ひょんなことがきっかけで ふっと気付かされたことがあります。 断捨離という片付けの出来る人と出来ない人とを訳もなく区別する様な言葉が流行した時期がありましたね。その頃に片付けの下手な私は多分永久に読まないだろうと確信を持った本だけは手放しましたが、手放せない書物が以外に沢山あることに、自分でもいつ読めるようになるんだろうと思いながらも、ま、いずれ歳取れば動けなくなるその時に読めるよね。と自分を慰め励まして、積ん読ことにしました。ところが、その積んどいた書籍たちを引っ張り出しては読んではまた積ん読 その繰り返しでちっとも片付かない。

ここでまた なんでだろう・・・。ひととおり、あちこちに散らばっている本達を集め乍ら、読む本、読みたい本、読み続けたい本、最近、読みたくて探してやっと手に入れた本等々に分けてみました。左、これは好きな作家達、ノア・ゴードン、ゲアー&ゲアー、バーバラ・ウッド、ロザマンド・ピルヒャー、手嶋龍一、類似のロマンはまだ数冊と言わず箱の中で休息しています。右3冊は1945年8月6日8時15分(ヒロシマ)、1986年5月4日〔チェルノブイルからの放射能汚染がドイツ中部にたどりついて外出禁止令がドイツ政府から出された日〕2011年3月11日以降(福島原発人災事故を90km離れた仙台で体験)を潜り抜けて、今も精神的身体的健康とは何ぞやを考える上では必要不可決の書物です。誰に何と言われようとも手元に置いて繰り返し読み続けます。

さらに、知る人ぞ知る中世の尼僧、啓示を受けて様々の教書を遺したヒルデガルト・フォン・ビンゲンによる書籍。ドイツ語圏ではヒルデガルト専門の学者や医師も養成され、医学、薬学、ホメオパシーに大活躍です。
人生は泣き笑いの連続です・・。どんな時にも 工夫の知恵や気持ちの落ち着きは必須です…。そのためにもあらゆる種類の書籍に興味を持ち続けることが出来ればそれに越したことはないとも思います。で、最近手に入れたものの、まだ少し目を通しただけの、これからが愉しみな書籍もゴロゴロ増えました。

中國少林寺出身の僧侶と修行僧のドイツ人とで建てられた道場がベルリンにあります。そこから出版された教導書。美しいドイツ語も学べるので一挙両得。これに類似の書籍やDVDは今も折に触れ大切に学び続けています。

日本にも逆境を逆手に取り賢く剛く生き抜いた女性はいつの時代にも居たはず。2冊の詩集は、アイヌや沖縄の歴史を語る書物と併せて大切な本です。
様々のお人の心を学ばせていただき、自分の内に秘めた思いを顧み気持ちを整えていく作業は留まることはないはず。下の4冊はそのための心の灯になり、LIEBE=愛 を教えられ、生きる力を戴ける大切な書籍と言語辞典。これからも終生お世話になり続けます。
ひとりぽっちも決してぽっちではありません。もともとみんな、それぞれひとりぽっち の人生をLIEBEに導かれて生きようとしているだけ、なんですよね。

左から
ドイツ語の讃美歌、カトリック プロテスタント 共同訳聖書、
日本語⇒ドイツ語辞書、ドイツ語⇒日本語の辞書

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あとがき

*第13号
ご寄稿戴いたS.I.様、千葉幸恵様、青木淳子様、校正完成まで長い間お待たせいたしました。お蔭様で皆様のお手元に届けることが出来ます。
嬉しい限りです。
ありがとうございました。

*安井猛の3つのセミナーは続いております。
職場でのストレスゼミ 第1木曜日 19:00〜
ロゴセラピーと日本人のこころ・般若心経を読む 第3金曜日 19:00〜 
フェルデンクライス 10月11月12月第1土曜日、1月2月3月 第4土曜日
いずれも 1ゼミ2時間 ¥12,960(消費税含)です。

*認定ロゴセラピスト やすいうゐこ担当
毎月第2土曜日 女性のための生涯塾・参加費 1年間¥60000 又は 1回¥5000
毎月第4金曜日 わぃわぃ月末談義 参加費 1回分¥1000 テキスト無し

やすいうゐこの総合的心理療法を再開いたしました。
生涯随伴メンタリング・総合的心理療法メンタリング
曜日 月日は 打ち合わせ致します。
◆カウンセリング料金
初回 3時間程度 ¥15000
2回目〜1回1時間半 ¥12000
生涯随伴 1回50分〜1時間半¥9000+消費税
*お振込手数料は各自ご負担下さい。

各料金お振込先

店コード:266
銀行:七十七銀行 西多賀支店
口座:普通
口座番号:5510864
振込先:ニホンロゴセラピーアンドジツゾンブンセキケンキュウショ センダイ ヤスイタケシ

言葉と沈黙と

【単価】
税込 ¥1080,−

【第13号発行】
2018年10月12日

【発行者】
安井 猛 (PhDマインツ大学プロテスタント神学部)尚絅学院大学名誉教授
日本ロゴセラピー&実存分析研究所・仙台 研究所所長
ドイツ国一般社団法人ドイツロゴセラピー&実存分析協会(DGLE)認定ロゴセラピスト
ドイツプロテスタント教会・ヘッセンナッサウ(EKHN)認定パストラルケアラー

【住所】
〒980-0014 宮城県仙台市青葉区本町1-13-32(株)オーロラビル605

【ファックスのみ受付】
022-707-4582

【JILEXオフィス】
jilex-tws.okiu8@agate.plala.or.jp

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